【前回の記事を読む】「中国語の勉強をしたい」と決心した意外なきっかけとは?

第一章 巣立ち

店内の仕事仲間は皆茂に対して気さくで親しくしてくれたので茂は明るい雰囲気の中で働くことができた。鮮魚販売店主の次男のグンちゃんは男盛りで威勢がよく、豆絞りの手ぬぐいを額に巻いた「ハイヨ、ラッシャイ」の彼のかけ声が時々店全体に響いた。

八百屋の美奈ちゃんは赤ら顔でいつもはち切れそうなズボンを穿いて健康そのものだった。彼女は茂と同世代で店主と同じ青森出身だった。

初冬の一日、空っ風の銀座の通りを茂は美奈ちゃんと出歩いた事があった。冷たく気取ったコンクリートとガラスで仕切られた空間に二人の落ち着く場所は見当たらずただ歩き廻るだけだった。

精肉屋の主人はいつも真っ白な白衣とつばなし帽をかぶっていて色艶の良い丸くて張りのある顔つきは肉屋そのものだった。同じ売り場の先輩格のみっちゃんは茂よりも一回りくらい年上で人懐っこいクリクリ目玉を輝かせ何かと茂に親切にしてくれた。彼女は客との応対の仕方や、量り売りの佃煮や惣菜類のパックの方法、特に経木の使い方などを的確に教えてくれた。

定休日や仕事が早めに引けた日には時折この人たちと一緒に近くの銭湯に行った。みっちゃんが「しげちゃん、もう出るよ」といつも壁の向こうから声をかけてくるのだった。みっちゃんは桜ストアーの立ち上げの頃から従兄夫婦と家族同然で働いており、従兄の奥さんと同郷の新潟柏崎の出身だった。

「お兄さんこっちが先だよ」、「いつまで待たすのよ」、催促の声とともに四方八方から腕や手が伸びてきて茂の白衣の端を引っ張ったりした。

土曜特売日の戦争が始まっていた。狭い店内はすでに立錐の余地もない。バーコード・レジシステムなど普及していない時代で、つり銭の小銭はゴムひもで天井から吊るされた笊に入れておき、客との勘定のやり取りはその場で行われた。客も夕方の忙しい時間を無駄にしたくなく、皆慌ただしかった。

客は一品だけでなく、大抵が数種類の惣菜類を買っていく。茂は客に品物を渡すたびに客の買った金額を暗算で計算しておき、客が買い終わると反射的に金額を客に伝えることができた。客は茂の計算を疑うことはなかった。客も自分の頭で計算していたと思われるが、いつの間にか暗算勘定は茂の特技となっていた。

客足が退ける夕方六時以降漸く店じまいの準備に入るが、缶詰、ビン詰、量り売り商品など品種は雑多で、倉庫からの品出し、売り棚への補充などの仕事は意外と時間がかかり、毎晩九時十時はざらだった。レトルト食品はまだ普及していなかった。茂は住込み働きを始めて二、三か月で店の仕事を覚え、買い物客の応対も無難にこなせるようになった。

十二月、寒風の吹きつける真冬の店頭で茂は苦闘した。豆腐製造業者により運び込まれた冷たい水が張られた豆腐の入った四角いコンテナの中に、客の注文に応じて肘から先を水の中に入れて素手で豆腐を壊さぬように注意深く掬い上げる作業は形容し難い辛さで、水から引き上げた手指に寒風が襲い、掬い上げるたびに五本の指全部がじんじん痺れた。