胎児の標本

住まいと病院との境に土蔵があり、いろいろな医学的な標本も収納されていました。その中に、胎児の標本があり胎内での成長過程に応じて一か月毎位にそれぞれ筒状の厚手のガラス瓶にホルマリン浸けになっていました。土蔵はその頃我々兄弟の遊び場ともなっていたので、こうした標本にはほぼ日常的に接していた感じです。

夏ではなかったし、かといってそれほど寒かった記憶もないので、季節感からして昭和十九年の秋かあるいは翌二十年の春頃ででもあったでしょうか、その十体近い数の胎児の標本を乳母車に積んで祖母と兄と三人で出かけました。別宮山(南光坊)のところから右に折れて、高野山(今治別院)の境内を抜け、旭町を通って蒼社川を越える埃っぽい街道を行きました。

鳥生であったかあるいは拝志の辺りであったでしょうか、人気のない砂浜を祖母が選び三人で引き潮の海辺を掘り、祖母が南無阿弥陀仏と呟きながら標本をそこに埋めました(この時、祖母が我々を遠ざけたようにも思うのですが)。線香を焚き祖母がお経を唱えました。そして、手を合わせながら「やがて潮が満ちて、永い年月のうちに土にかえってくれるだろう」と言うようなことを我々に言い聞かせました。私は、祖母が気にかけていた荷を一つ下ろしたのだなと思いました。

祖母が既にこの頃、わが家が(蔵はもちろん、ひょっとして祖母自身も含め家族も)このままに安泰であることは期し難いかもしれないと判断した上での行動であったに違いないと思っています。そして、この祖母の行為は私が命というものを意識し、それとどう立ち向かうのかを心得た、生まれて初めての出来事となりました。

怖かった記憶

戦災を通じて身の危険を感じた記憶は一度だけです。時期は分かりませんが、多分四月二十六日といわれる空襲の時の事であったと思われます。その頃は何かの警報をきっかけに分団が揃って引率の先生が付いて帰宅するという感じでしたが、その日は先生たちが急にあわただしく生徒を集め、同学年の三、四人が集まったところでせかされながら帰途に就いたと思います。

普段の引率では見かけない若い女の先生でした。そのため、道は子どもたちが先導する形で、ややばらばらになって走ったと思います。原印刷の辺りに差し掛かった時急に低空の爆音が近付き、左手にあった川に飛び込んで道側の渕にへばり付きました。

その直後、川の向こう側の塀―蜂須賀病院だったと思いますが川岸から直接頑丈な塀が高々とそびえ、壁面には丸みを帯びた石が埋め込まれていた―を左から右へ何かが走り、埋め込まれていた石が幾つか飛び散りました。誰かが負傷した記憶がないので全員無事だったとは思いますが、その後は記憶にありません。何の根拠もありませんが、あれは機銃掃射だったとずっと思っています。