【前回の記事を読む】【小説】妻になった美しい女の謎の行動は村でも噂になり…

蛇恋

湖には滝が降り注いでいる。

その水元をたどるように、女は崖を登る。傷から血を流し、脚を引きずりながらも、ようやっとたどり着いた滝の頂には小さな祠。女はそこに(ひざまず)くと、なにごとかをつぶやいている。

既に陽は昇りきっており、朝とはいえない時刻になってしまっている。全てが雪に喰らい尽くされたかのような静けさの中に、女の声が響く。

「どうぞ……龍神さま……どうぞ……」

けれど無慈悲にも、女の声はどこにも届かない。自責と憂慮の念が男の心を正気に戻した。一向に戻ってこない女を心配し、おびただしい量の血痕をたどって崖を登りきると、そこには陽光に照らされて祠に祈りを捧げる女がいた。肌に浮かび上がった鱗がキラキラと綺麗に輝いている。

――本当に妖であったか……。

男は驚いたが、彼女が自分にしてくれたことを忘れたわけではない。少なくとも、女の自分に対する想いに偽りはなかった。誰にも言わずに隠し通せば、彼女とずっと一緒にいられる。罪悪感にも似た安堵が男の胸を染める。

一心に祈り続ける女は、しかし男の姿に気づかない。

泣けど祈れど、その白い肌が鱗へと変容していく。その必死な様子に声をかけることを躊躇(ためら)っていた男が、ついに女の名を呼ぶ。振り向いた女はその姿を認めると「幸せでした」と泣きながら笑った。

次の瞬間、その姿が掻き消える。湖のように青い着物から、何か小さなものが這い出てくる。それはそれは、美しく愛らしい白蛇であった。男はその姿に見覚えがあった。母が亡くなるまではよく見かけていた白蛇であった。

「約束通り、お前は私のものだ」

天から雷のような声が降り注ぐ。ぐわっと突風が吹き、滝が地上ではなく天へ向かって昇っていく。白蛇もその流れに巻き込まれて天へと昇ってしまう。

取り残されたのは、茫然と佇む男だけ……。

あまりのことに理解が追いつかず、放心状態のまま男が家に帰ると、そこには真っ白な蛇の抜け殻が落ちている。彼女の身に着けていた羽織のように白くて美しい。

――あぁ、そうか。

はたと気づく。終わってしまったのだ。それは恐ろしく甘美な日々であった。女の真心を疑う余地はないが、どこか安堵してしまった己が惨めでならなくて、男は生涯独り身であったという。