孤蝶

一瞬の浮遊感の直後、首に軽い衝撃を受けたような気がして目を開ける。

どうやらあぐらを掻いた姿勢のまま、舟を漕いでいたようだ。視界はぼやけ、瞼は非常に重い。

――はて、ここはどこだったろうか。

茫とした頭のままで辺りを探る。畳敷きの部屋の中心では囲炉裏で火が焚かれている。他には何もない簡素な空間。あぐらを掻いて座っている己の左膝に、女が頭を載せて横たわっている。黒髪から飛び出た獣の耳が、彼女が人間ではないことを告げていた。

部屋にも女にも、心当たりはない。どうしたものか考えていると、居心地がよろしくないのか、女がほんの少し身じろぎをした。こちらから顔を背けてしまっているのでよく見えないが、起こしてしまったのかもしれない。この平穏を守れればと思い、できるだけ優しく髪に指を滑らせる。

撫でるほどに指に馴染み、絡みついてくるような艶やかな感触に、欲望が鎌首をもたげてきた。どうしたものか思案しながら手を止めると、彼女は不満げにもう一度身をくねらせた。諦めて彼女の髪に指を埋め、再度手の動きを再開すると、彼女の身体から力が抜け動きが止まる。

わずかに動く耳が満足を告げている。パチパチと鳴る囲炉裏の火が、柔らかな暖かみとなり、再び眠りへと誘うようだ。

――いつからこうしていたのだったか。あぁ、どうにも記憶が曖昧だ。今初めて見る情景のようであり、ずっとこうしていたような気もする。

求められるままに髪を撫であげる。膝の上の温かくて重い、確かな感触。その黒髪に顔を埋めたい。そんな欲望が沸々と泉のように己の中に湧いてくる。耐えきれずに髪をひと房掬い上げ、その妖艶な香りを味わうように息を深く吸い込んだ。

新緑の匂い。お日様の匂い。そして、どこか甘味を連想させる女の匂い。

それらが混ざり合い、胸の奥深いところを刺激する。女はくすぐったがるように身を(よじ)ると、顔をこちらに向けた。切れ長の目は怒っているように見えたが、すぐにそれは己の勘違いだと知る。

瞳の奥に宿る熱は、怒りではなく悦びのそれのようだ。言葉もなく、ふたり見つめ合う。

……綺麗な女だ。

長い黒髪は部屋を照らす橙色を飲み込むように輝き、端正な顔立ちには意志の強さが現れている。

(もや)のかかったような頭では未だはっきりとは思い出せないが、己はこの女を確かに知っている。そう認識すると、つーと己の頬を涙が伝うのを感じた。ずっと一緒にいたにもかかわらず、寂しさと安堵が同時に胸に溢れている。

「夢を見ていたよ」

独り言をつぶやくように、語り掛ける。炎の立てる音にかき消されそうな声ではあったが、どうやら彼女の耳にまで届いてくれたらしい。彼女が小さく微笑むのがわかった。

「お前さんはよく夢を見るのだな」

涼やかな優しい声。小さくても、それは確かに耳に染み入る。女の手が伸びて、さわさわと己の頬を撫でた。少し冷たいきめ細やかな肌の感触に、思わず目を細める。

愛おしい気持ちが溢れて止まらない。あぁ、もっと、もっと彼女が欲しい。目をつむり、その手の感触に心を集中させる。撫でられているだけだというのに、味わったこともない快楽に溺れてしまいそうだ。それこそまるで、夢のような……。

※本記事は、2021年12月刊行の書籍『残滓』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。