二十歳を超え、親の目から見てもなかなかの出来に成長した倅の彦六は元服して久通と名乗り、良い若武者になっていた。その彼に儂は兵を預け、且つ万全を期して、安宅冬康・松山重治・半竹軒らの援軍を付けてやり、信貴山から東北に一里半ほどの距離にある斑鳩の小泉城を攻めさせた。

小泉城は沼地に囲まれた要害であるが、城攻めは案外容易に進み、筒井方の小泉、立田、夕崎、今中、窪、標原などの土豪や、筒井家家臣の山田、栗本などを次々と討ち取り、城は呆気なく落ちた。

「久通め、良うやるではないか」

信貴山城の修築を自ら陣頭に立ち指示していた儂のもとに、久通勢勝利の報が入った。

「安宅冬康様と松山重治様が与力についてくださったとはいえ、実際に指揮を執ったのは久通様と聞いております。将来が楽しみな大将になられましたなぁ。若殿は……」

作事を担当する勝雲斎周椿も喜んでくれているようである。世辞でも嬉しい。

「冬康殿には淡路と岸和田から兵を集めて来援していただいたのだ。敗れて帰すわけにもゆくまい」

三好実休と十河一存、二人の兄弟を相次いで亡くした長慶様は、唯一残された安宅冬康に岸和田と高屋の城を任せていた。自然、領地を接する冬康と儂は親交を深めているところであった。

「確かに、三好家のご重鎮様方と誼を通ずることは必要なことですが、それにも増して、若殿の武功をお味方にも知らしめることができたのは、若殿の将来のためにも有効であったと思います」

良い後継者を得た儂は、満足していた。

重たい灰色の雲が空を覆い、お天道様も滅多に顔を見せることのない梅雨空、居城の芥川山城で三好義興様が病に倒れた。実は梅の花の頃から発熱が続き、全身気怠さに覆われ、それが桜の頃には息切れが酷くなり、嘔吐を繰り返すようになったという。

半井驢庵と曲直瀬道三の二人の名医が脈を診、薬を調合しているのであるが、義興様の御容態は一向に改善されなかった。新緑の頃になっても義興様はまだ、体調の悪さと闘いながら、何とか御政務に携わっておられたが、ここへきて頻繁に鼻血を流すようになり、ついには床に就いてしまわれたという。

多武峰との一件以来、大和国をなかなか平らげることができずいる儂は、鬱陶しい梅雨空の下、越智氏の拠る高取城を囲んでいる最中で、またしても奈良盆地の南端の山間で身動きが取れなくなり、見舞いに参上することもできずにいた。