【前回の記事を読む】「頃や良し」命じられた総攻撃、信貴山城奪還作戦の結末は…

永禄六年(西暦一五六三年)

儂は泣いて、泣いて、そして泣いた。

お生まれになられた頃の可愛らしい御姿を思い出しては泣いた。まだ幼き日に実の母と引き離された義興様を、倅の久通とともに、我が子のようにお育てした日々を想っては、また泣いた。

共に上洛し、共に任官した時の晴れがましい御姿は、つい昨日のことのように思い出された。三好勢の総大将として実休の弔い合戦に臨まれた時の、あの凛々しい御姿は、まだ鮮明に我が瞼に焼き付いている。在りし日の義興様の元気なお姿を想い浮かべるだに、涙は止まらなかった。

いつも笑顔が清々しく、心の強いたくましい若武者であられた。これで三好家の行く末も盤石であると、儂はずっと思っていたのに……。

蟋蟀(こおろぎ)も鈴虫も死に絶えて、美しかった紅葉の全てが地を埋め尽くした晩秋。大徳寺の大林宗套禅師を中心に五山の禅僧が参列し、堺の南宗寺において、義興様のご葬儀が営われた。

御葬儀は多くの方々の参列により盛大に、そして、しめやかに執り行われたのであるが、喪主を務められる長慶様は、経を唱えるでもなく、泣き崩れることもなく、一言も言葉を発せず、一滴の涙も見せず、どこか焦点の定まらぬ目で虚空を眺めるようにしておられたのが印象的で、それがなお一層、参列者の涙を誘った。

そんな長慶様に、儂はお声掛けすることすらできずにいた。