日本に帰る飛行機の中、克裕は頭の中で、「本物……本物……」とずっと考えていた。そういえば、アメリカに行っても、イタリアに行っても、「蔵」はなかった。「蔵」は、日本の独自の文化になるのかもしれない……。

「蔵」とは、真白な壁の家「土蔵造(どぞうづく)りの家」。土壁(つちかべ)の上に漆喰(しっくい)などを塗って仕上げたものである。蔵の建築様式は、通気性が良く耐火性に優れている。火事の際は、貴重品を蔵の中に運び入れ、扉を固く閉じ、家の宝を守ったという話も伝わっている。

蔵造りがいつごろから始まったかは定かではないが、江戸時代には漆喰仕上げが完成し、その耐火性能から、戦国時代の城郭や天守にも使用されていた(扉のすき間に味噌を塗って火の粉の進入を防いだりした)。

マルセンの蔵は、後出の座敷わらしと話した伊藤さんによると、一八七六(明治九)年ごろに建てられた蔵である(百四十五年ほど前)。

宮城県角田市は、一級河川の阿武隈川の西に面しており、古くから米作りや養蚕が盛んで、絹や米、塩や材木などの商品を、阿武隈川を運搬に使い、財を成した豪商が多くいた。彼らは、店蔵や、店の裏に商品をしまっておく倉庫としての蔵を何棟も持っていた。マルセンの蔵は、元呉服商の所有していた呉服蔵で、その土地を初代の千治郎が購入しその蔵の前に旧店舗を建てていた。

日本に帰った克裕は、道路に面した店舗とその奥の自宅の間の中庭にある「蔵」を見て考えた。この蔵を(おお)うように新しい店舗を中庭に建て、蔵は、本来の役目を果たすべく、商品のバックヤードとして活用する。

中庭の店舗が出来上がり次第、商品を移し、道路に面した旧店舗をすべて取り壊し、その店舗部分をお客様用の駐車場にする。その内部に蔵を入れるという入れ子構造の構想を一級建築士に話すと、彼は、「お店の中に蔵を入れるなど、前例がない」と驚いていたが、克裕の決意は、その後、変わることはなかった。