ありがたき哉

子供の頃には「ありがとう」という言葉は概念的にも使用するにしてもとても単純な言葉だと思っていた。

その頃は、母から、なにかにつけて「ありがとうは?」と、「ありがとう」という言葉を促されていた。お客様からのお土産や祖父母に褒めてもらったり、誰かに手伝ってもらったりしたときなど、黙っていると必ず「ありがとうは?」と言われた。

だから、いつのまにか、人の好意に対しては「ありがとう」という言葉で感謝しなくてはいけないものだと思い込むようになった。その結果、私にとって「ありがとう」「ありがたい」という言葉は、ごく当たり前の日常的な言葉の一つにもなっていた。

その日常的な、単純な言葉の一つに過ぎなかった「ありがとう」という言葉も、当然だが、成長するにつれ次第にその意味の深さや幅などいろいろな意味合いを理解するようにもなっていった。

小学校の高学年か中学生になりたての頃だったろうか、母はあるとき突然「ありがたいって、どういうことかわかるの?」という質問をぶつけてきた。

その頃の私は、なにかにつけての母の「ありがたい」「ありがとう」という感謝の言葉の強制にいささかうんざりしていて、そう言われるたび「はい、はい、ありがたい、ありがたい」などと、茶化すようなことも多くなっていた。そんなときだったのだと思うが、母に、いつになく鋭く突っ込まれたのがこの質問である。

「人に助けられたり、なにか頂いたりしたときにお礼を言うの」と、今思い出しても恥ずかしいような幼い答えをしどろもどろで答えた私に、そのとき母が放った言葉は、私にとって、人生で最初の、それまでの価値観が引っくり返った衝撃の言葉だった。

「今朝お手洗いに行ったでしょ。オシッコした? ウンチは? 毎日ちゃんとオシッコやウンチが出て、またおなかが空いてご飯がおいしくて、それで、元気に生きているのよね。あなたはそういうことを自分で考えてしているの? そういう風に自分で考えて生まれてきたの?」