軍律

戊辰戦争後会津人の間に薩長両藩への強い恨みが永く残った一因は、戊辰戦争時、新政府軍兵士によるとされる略奪や強姦などの暴虐な行為があったためであった。

その暴虐ぶりについて、山川健次郎編の『会津戊辰戦史』の「付録 敵軍の暴掠」に次のようにある。

「王師などゝ称へし敵は野蛮の甚しき行のみ多かりしは言語の外なり商工農家を問はず家財の分捕は公然大標札を建て薩州分捕長州分捕曰く何藩分捕と記し而して男女老幼を殺戮し強姦をば公然の事とし陣所下宿には市井人の妻娘を捕へ来りて侍妾とし分捕りたる衣食酒肴に豪侈を極めたることは当時市人の目撃したる所なり」

もっとも、この付録自体では暴虐についてそれほど紙数を割いておらず、当時暴虐を目撃耳聞して書かれたものとして、『辰の幻』、『戊辰見聞万筆』、『耳目集』の書名を紹介するに止めている。

一方、新政府軍側の記録として『復古記』には、総督府から、軍紀の緩みに対する注意喚起がしばしばなされていたことが記録されている。

早い時期のものとしては、次のようにある。

「2月27日 因幡藩、其兵士ノ軍令ニ背キシ者ヲ刑シ、其状ヲ督府ニ稟ス、督府、乃チ之ヲ諸軍ニ布告ス。此者儀、……破規律致過酒、剰ヘ御法度ヲ忘レ、宿役人共へ無法之掛合ニ及ヒ、暴威ケ間敷キ振舞イタシ、人馬ヲ出サセ候儀、御軍令ヲオカシ候、其罪不軽候ニ付、令梟首モノ也」

この後、7月以降この種の記事が増える。例えば、

「7月9日 諸軍中、鹵掠ヲ行フ者アルヲ以テ、大総督府、令シテ之ヲ戒飭ス。

大総督府達書

去ル24日、棚倉落城之節、各藩之内、孰レ之藩ニ候哉、市中或ハ農家ヘ立入、金銀其外衣服等奪取候徒モ有之趣相聞如何之事候、兼テ被仰出候御ケ條モ有之事故、向後屹度取締可申旨被仰出候事」

「9月8日 督府、諸軍中往々鹵掠ヲ行フ者アルヲ以テ、各藩隊長ニ令シテ、厳ニ其部下ヲ戒飭セシメ、犯ス者ハ、隊長ヲ併セテ軍法ニ処ス

此度、津川民生局ニオヰテ、農町家等取調候処、官軍打入以来、紛失ノ品物、衣服、米銭ヨリ鍋釜等、諸雑具ニ至ルマテ、数百品ニ下ラス、皆官軍ニ奪取ラレ、或ハ押買等モ有之、現然藩名、人名等相知レ候分モ不少、実ニ言語道断驚入候儀、官軍、賊軍之差別モ不相立次第、奉対朝廷何トモ奉恐入候、是迄越地進入以来モ、右様之儀ハ決テ無之処、近頃ニ至リ、分捕ヲ争候風盛ニ被行、

……小者等迄、皆盗賊同様ノ所業致シ、或ハ農町家之府庫ヲ封シ、或ハ門戸ヲ押破、器財ヲ奪取候族モ不少、下々ノ過ハ皆長官ノ罪ニ候ヘハ、右等之儀長官タルモノ一向不存知トハ難申、何之面目ヲ以テ朝廷ニ対シ奉リ、官軍ト称シ申サンヤ、

……屹度厳粛取締、王者之師、秋毫不犯ト申場合ニ立至リ候様、精々教示シ、廉恥ノ風ヲ長シ可申事ニ候、若違背之輩於有之ハ、当人ハ不及申、其長官モ罪名ヲ三軍ニ布告シ、……軍法之処置可致候、此旨士卒末々夫人足ル迄、無遺漏申渡、朝廷之御耻辱不相成候様可被心得候也。  

辰 九 月                                                       

会 議 所」