南部藩

秋田藩が7月4日に奥羽越同盟を脱退し新政府側に付くと、仙台藩は南部藩に秋田藩を討つよう命じた。南部藩は同盟・新政府いずれに付くか議論が定まらず、上京中の家老楢山佐渡の意見を求めるべく、その至急帰藩を命じた。佐渡の同盟支持は明白であった。

これに対し、佐渡に従っていた目付の中島源蔵は、佐渡に強く恭順を説いた。そしてそれが聞き入れられないと知ると、大坂の宿所で割腹して果てた。行燈に「奸臣殺忠臣」と血書してあったという。用人の目時隆之進など数名も、同じように佐渡を説得できず、藩主に異心のないことを新政府に訴えたいとして脱藩し、新政府側に投じた。目時は戦後盛岡に帰り執政となったが、売国の徒と謗られ、自刃した。

秋田藩

早川輔四郎は秋田藩の分家湯沢南家の重臣で、その主君に代わって兵を率いて庄内追討戦に参加していた。当初庄内藩の力が圧倒的に強く、輔四郎は戦わずして湯沢城を明け渡し北に逃れるという屈辱を味わった。このため早く湯沢城に戻りたいという気持ちが強かったと思われる。

その後総督軍は勢力を挽回して南進、輔四郎の部隊も9月19日には六郷に達した。そしてその夜、六郷に止まって警備に当たるべしとの総督府参謀の命令があったにもかかわらず、輔四郎はさらに横手に進んだ。

翌20日、総督府参謀は、それを重要な軍令違反として、輔四郎に切腹を命じた。輔四郎は即日切腹して果てた。

輔四郎がしばしば参謀と衝突していたので、参謀が意趣返しをしたと言われ、藩の重臣を勝手に処分する参謀の横暴に、藩の一同は涙したという

仙台藩一

秋田藩が同盟を脱退することを決めた頃、ちょうど仙台から用人志茂又左衛門を正使とする11人の使者が秋田に来ていた。彼らは秋田藩に、「総督など3人の公卿を仙台に戻すよう、また3人に従っている薩長の藩兵を藩領から追い出すよう」要求した。

7月4日夜、彼らはその宿所を秋田藩士に襲われ、志茂など6人はその場で斬殺され、翌朝梟首された。逃れた者も捕らえられ後日斬殺された。

この件については、秋田藩を同盟から離反させるため総督府参謀の大山某が秋田藩士を唆してやらせたとする説がある一方、使者斬殺は秋田藩にとって大きな汚点であるため、大山にその罪を着せたとするも説もある。