奥羽越など諸藩の何人かの落命者

奥羽越、それにこの書では触れていないその後の箱館での戦争では、以下のような犠牲者も出た。

天童藩

2万石の小藩天童藩では、鳥羽伏見戦後の朝廷からの藩主上京命令により、病気の藩主織田信学に代わって16歳の世子信敏が上洛した。その際、思いも寄らず天童藩に奥羽鎮撫使の先導役が命じられた。

しかし信学は病臥中、信敏は若年、結局信敏に従って上京していた中老の吉田大八が先導代理役を引き受けることになった。かくして3月に奥羽鎮撫総督が松島に上陸、4月に副総督が庄内藩の討伐に向かうという流れの中で、心ならずも大八は庄内藩にとっての最も憎むべき人間にされてしまった。

旧幕時代、幕府は羽前村山郡に7万4千石の領地を有し、寒河江と柴橋に陣屋を置いていた。鳥羽伏見戦後江戸に帰った慶喜は、庄内藩のそれまでの江戸の治安維持活動の代償として、この土地を同藩に預けた。一方朝廷は、その前に旧幕領は朝廷に属すると布告していた。そこで庄内討伐の理由付けに困っていた総督府は、これをもって庄内藩は朝廷領を奪った朝敵だとした。

4月3日、総督軍は陣屋を襲ったが、仙台藩から総督軍襲来の急報を受けていた庄内藩は、陣屋を引き払っていたため、戦闘は起こらなかった。4月14日には副総督が総督と別れて庄内討伐に向かい、同月24日、副総督に従う薩長2藩兵が清川で庄内軍を攻めたが敗れた。その後も討庄応援を命じられた近隣各藩の藩兵が副総督の軍に加わって庄内軍と戦ったが、どの藩兵にも戦意はなく、庄内軍が優勢で、閏4月4日には、庄内軍が天童城下を焼き払い、天童城を占領してしまった。

奥羽列藩同盟が成立すると、庄内藩は天童藩に対し、吉田は薩長のために羽州に兵乱をもたらした奸徒である、天童藩が真に同盟に与するのであればその証として吉田を引き渡すべしと要求し、自らも吉田を探索すべく吉田の首に懸賞金をかけた。

吉田は奥羽列藩同盟の成立とともに職を解かれ、謹慎を命じられ、近在に潜伏していたが、藩の重臣が訪れて藩の苦衷を訴えた。このため吉田は、同盟側に釈明をすべく出頭する途中を山形藩兵に捕らえられ、同盟側の陣営に拉致され、訊問を受けることになった。最後は、同盟側は、天童藩に吉田を処分させることとし、藩は6月18日、彼を自刃させた。