後から見ると、新政府の中心にいた薩長両藩にとって、話合いではなく戦闘という実力行使によって抵抗勢力を粉砕すること、「武力革命」は、諸藩を自分たちに従属させていく上で必要かつ有効なやり方であったように思われる。公卿に対しても、それはその発言力を弱める上で意味があった。

新政府の総裁・議定・参与という組織の中で、各藩の藩士が唯一就任できたのは参与であったが、その参与でも公卿は「上参与」、藩士は「下参与」と差別され、また征討軍の参謀も公卿は「上参謀」、藩士は「下参謀」と藩士を下に見る公卿の風潮があった。

この風潮は、征討中に武士階級の実力を見たことによって公家たちの間から消えて行き、最後には、公卿が諸侯と共に容易に「華族」という団子に丸め込まれ、政府の要職からも遠ざけられるということに成り得たように思われる。

版籍奉還、廃藩置県、秩禄処分といった新政府による過激な施策も、対会津戦争、「会津いじめ」、での新政府の武力の誇示、さらには参戦による各藩の藩財政の悪化によって可能になったという面があったと思われる。

「反逆者」の処分

1868年12月7日、奥羽越列藩同盟加盟各藩が江戸城改め東京城に集められ、新政府より各藩の罪が断じられ、それぞれに処分が宣告された。

しかし、会津藩主を含め、藩主については死罪となった者はなく、会津藩主松平容保とその子喜徳の永預の他は、謹慎か隠居を命じられるに止まった。

家名については、藩主が罷免されても全ての藩主について血脈の者への相続が認められた。

領地に関しては、多くの藩については、それまでの領地での削封に止められ、会津藩についてのみ、津軽の極寒不毛の地への「一藩配流」があった。庄内藩についても移封の命令があったが、領民を含めての嘆願活動と、70万両の献金を行うということで宥免された。70万両のうち30万両は酒田の大商人の協力で納付を終え、残りは廃藩置県もあって支払わずに済んだ。