会津いじめ

1868年2月15日に東征大総督が京都を出発した時点では、薩長両藩と会津藩との戦闘は、会津軍がオール徳川軍の一翼を担って江戸城の攻防戦に加わっているという中でのそれであり、この戦いで徳川慶喜が降伏すれば、会津藩との戦闘もそれで終わる、会津藩の処分も慶喜の処分と一括で、ということであったであろう。

ところが、慶喜との戦闘は起こらなかった。

慶喜の恭順の姿勢は明確であった。

新政府側から徳川に嫁いでいた和宮や篤姫からのものを始めとして、慶喜のために寛典を求める嘆願は相次いだ。新政府側に立つ有力諸侯も慶喜のために尽力した。勝海舟のような有能な交渉役も慶喜側に控えていた。そして江戸は多くの外国人が居留する横浜に近かった。

新政府軍の江戸城総攻撃の日と定められた3月15日の前日、勝海舟との会談の後、西郷隆盛は東海・東山・北陸3道の総督軍に江戸城総攻撃の延期を伝えた。

直ちに東山道軍の参謀板垣退助が西郷の元に駆け付け、せっかく全軍の攻撃準備が整い、その士気も絶頂にある今、なぜ攻撃を延ばすのかと強い口調で詰問した。板垣の軍は甲州勝沼で旧幕軍と戦い大勝していることもあり、闘志は満々であった。しかし板垣は、西郷から延期の理由を説明されると。そういう訳であれば仕方がない、とすぐに引き下がったという。