そして1864年3月、激派は藤田小四郎の画策によって水戸町奉行田丸稲之衛門を総帥として、「攘夷の先鋒たらん」と60人余が筑波山で兵を挙げた。天狗党の筑波山挙兵である。挙兵には前年8月の政変で京都を追われた長州藩からの働き掛けもあった。

「天狗」というのは、「斉昭によって登用された成り上がりの軽輩どもが、天狗になって威張っている」と、保守派が改革派の者たちを蔑んで呼んでいたもののようである。

4月に入ると藤田らは、追討軍に対してより守備しやすい地として日光山に向かったが、阻止され、しばらく下野国の太平山に滞陣した後、6月には筑波山に戻った。この間に参加者は日を追って増え、1千人を超えるようになり、そうなると軍団を維持していくための軍資金や食料をどう調達するかが問題となった。

もともと挙兵の準備段階でもすでに行われていたようであるが、近隣の富農や富商への強請や強奪が行われた。特に田中愿蔵の率いる一隊の行動は酷かったようで、太平山山麓の栃木の町や近隣の村に多額の軍資金を強要し、足利藩の栃木陣屋が間に入ると、軍資金の要求額を下げる代わりに陣屋の武器を貸すよう陣屋に要求した。

そしてそれを拒否されるや栃木の町に火を付け、ために二百数十軒が焼き尽くされた。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。