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ALS 

次の日からしばらく、「昨日は眠れた? メラは大丈夫」というのが顔を合わせた時の最初の挨拶になった。メラという猫とでも一緒にいるような気分になって、少しだけ心が安らいだ。その後、眠るときだけメラの細い管はテープで頬に貼られるようになった。

「マア、マア、ダヨ。デモ、疲レテイルヨ」

京子の右手の指を半分ずつに分けて、私の両手で持ち、京子の肘が少し上がるまで、持ち上げて、ゆっくりゆする。

「ぶらぶら、ぶらぶらぁー」

小声に出しながら上下にゆすり、ベッドの向かい側に移動して、左手も同じようにゆすった。そうすると、京子は子供に返ったようになり、笑顔がこぼれた。京子の手はいつも腰の脇に、手の平を伏せた状態で置かれていた。室内の体感温度によって布団から出しているか、入っているかの違いだけであった。

「ポケットカラ、手ヲ出シテイルカ、出シテナイカ、ダケダヨ」

京子は訳ありのような目を私に向け、目蓋を小刻みに動かした。以前は短時間のみ、手の平を上にするリハビリもあったが、手首が少し硬くなり、無理に動かすと痛みが出るようになったため中止していた。

「私、情ケナイ顔、シテル?」

「え?」

私は思わず苦笑した。京子には、とっくに気付かれているのかもしれない。情けない顔をしているのは私のほうだ。さっきから、無邪気な子供のような、それでいて得意げな目は、これを意味していたのかもしれない。京子の笑顔を見たいとき、リハビリを口実にして、私がやっていた本当の意図を見抜かれていたのかもしれない。まてよ、京子が「ぶら、ぶら」をするよう注文してくることもあったが、その時、私も当然、笑顔になって、京子の手の平をゆすっていたということか。私は暗い顔を封じ込めていたはずだったがと、思い直してあえて聞いてみた。

「俺、暗い顔していた時なんか、ないよね?」

京子は深い瞬きを一回して、隠しきれずに、小さく微笑んだ。完全にばれていた。

近頃は何か薄寂しい。私はまだ自宅介護をめざしていたが、ヘルパーの助けがあっても、自分一人での自宅介護は難しいことが、少しずつ分かり始めていた。

『もう、京子をこの先、家に連れ帰って、共に生活することができないかもしれない』

家に、いつもいるはずの妻がいつまで経ってもいないまま、というのが私の心を暗くしていた。炊事をして、一人で食事をしていると、夕方に別れたばかりなのに寂しい気分に襲われた。一息つき、ふと訪れた空き時間にはいつも感じた。これが心の隙間の始まりなのであろうか。ラジカットの期限付きの入退院のときに感じた規模ではないだだっ広い隙間を感じた。その時どきの思いによって、自由にその広さが変わっていく。

緑が芽吹きだした気持ちのよい春の日、夏の日の中に静かに散る白い百日紅の花、紅葉が広がり始めた美しい秋の日、雪が積もり、大地を真っ白に覆い隠した冬の日、時が過ぎるごとに少しずつ心の中に、現実のものとして、何かが固形体を作り始めていた。しかし、まだカサカサとしたものが積み上がっていくだけで確定していなかった。自分の悲しみなのか、空虚感の積み重なりなのか判断できなかった。少しの圧力を加えただけで全てが空洞に変わるのかもしれない。

「分からない」と独り言に近い言葉をつぶやいた。

「何、ソレ?」

「なんでもないよ」

「ドウシタノ?」

「大丈夫だよ」

私は微笑んで、京子を安心させようとしたが、かえって心がうわついてしまった。

「何故、悲シイノカ、分カラナイノ?」

「ああ、それが、分からない時がある」

「何カ、ロマンチック、ナノネ」

京子は、私以上に辛い時間が一杯あるはずなのに私を慰めようとしていた。私は、京子の顔を覗き込んで小さく頷いて、瞬間的に後悔した。

「あっ、ごめん。ごめん。本当に何でもないんだよ」

少しわざとらしい調子はずれの答えに、京子は聞いてはいけない独り言を聞いたように、暫く考えてから

「アナタノ、思ッテイル事ノ、全テガ、実際ニ、起コルトハ、限ラナイ。ダカラ、ソンナニ、悲シマナイデ。アンマリ、悲シンデイルト、口キカナイカラ」

と微笑んで見せた。

私は喪失感を悟られまいとして、無理をして会話をすることで、正体のない時間に、自分から迷い込んでしまったのだと思った。

『京子の筋肉の全てが動かなくなる前に、完治する薬の完成を、急がせてください。それがだめなら病気の進行を止めてください。その間に、京子にばれないような、笑顔を作り出す次の技を考えます』

誰に言っているのか、誰に誓っているのか分からないまま心の中で言った。

私は気持ちの持って行き場をなくしていた。悲しいときに、涙をこらえて心の中で『悲しい。ガァ~ー』『悔しい。ガァ~ー』と叫んで、自分の中に小さな怪獣を育てていた。これまでに経験したことのない寂しさを紛らわす時間であった。『なんでだ。ガォ~ー』と、たまに何かに当たりたくなる衝動にかられることもあった。感情が高ぶると、そのまま涙がぼろぼろと出た。