右手には平野が広々とひろがり、その奥、越後との国境に連なる山々は遥か彼方にある。

60年前は、磐越西線は蒸気機関車が客車を引っ張っていたはずだが、その辺の記憶はない。また先程の峠の信号所までには、標高差を克服するためのスイッチバックがあったようだが、それも記憶から消えている。

ただ、汽車がトンネルに入り、慌てて閉めた窓の隙間や前後のデッキのほうから洩れて来る煙で客室内がぼーっとかすむ様や、その懐かしい煙の匂いは、今でもいきいきと思い出すことができる。

単線区間で駅通過の際、走行を続ける列車から腕を伸ばしてタブレットの着いたリングをぱっと受け取る乗務員の素早い動きも懐かしく思い出される。

9月には、関東平野では稲の刈取りが終わり、田圃は地肌を曝していたが、磐梯山の山裾や会津盆地は見渡す限り黄金の波であった。

3月の宇都宮は青々と麦畑が広がっていたが、磐梯熱海を過ぎた辺りからは線路の両側に残雪が目立つようになり、峠から会津盆地に下りるまでは一面の雪野原となった。

その時は、この様子では今日一日雪の中を歩くことになるのかと心配したが、会津若松の街では雪は消えていた。

そして5月、関東平野では田植えを終えた鏡のような田が次々と車窓を過ぎて行ったが、会津では未だ田を起こして水を張る準備がされているところであった。そして雪は、5月には磐梯山の頂上近くに小さな塊が三つ四つ点々と残るだけであった。

この日家に帰って読んだ新聞は、富士山の八合目付近に、田植えの時期を告げる残雪の「農鳥」の形が現れたと報じていた。

今から150年前、1868年8月20日、二本松に集結していた新政府軍は、この日一斉に会津若松に向けて二本松を発進した。新政府軍は、21日に早くも要衝の母成峠を攻め取ると、あとはまさに坂を転げるように進み、22日には猪苗代城を奪い、23日早朝には会津盆地への最後の関門である滝沢峠を越え、たちまち会津若松城下を埋めた。

※本記事は、2019年11月刊行の書籍『歴史巡礼』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。