眉目秀麗な男爵と並んだパッティは少しも年齢を感じさせなかったという。彼女は非常な記憶力の持主でどんな歌でも二、三回うたえば覚えてしまい一度歌った曲は決して忘れなかった。

四十二のオペラの役をうたいこなしたパッティは記憶力がよい上に舞台姿は優美で、その発声は超人的な技法と広い声域を持っていた。音楽的に深い表現性をもつなど、声楽家としてのありとあらゆる条件を一人で兼ね備えていた。

一九世紀における最も優れたコロラトゥラソプラノと評される所以である。アメリカでの一回の出演料は五千ドルともいわれ、この桁はずれのギャラと記録的なコンサートの収益はカルーソを凌駕し、咽喉ひとつで四百万ドルの資産を残したという。

パッティはウェールズのクレ・ジ・ノ城で一国の王妃のように暮らしていた。この城の中には小劇場もあって、時折訪れる客のためにここでうたった。若い夫のために常に若づくりであったし、事実彼女は老いを知らなかった。

一八九五年五十二歳で告別記念公演と銘うって、コヴェント・ガーデンでその引退を声明したが、聴衆はその後もこの十九世紀の歌の女王をステージに立たせ二十世紀までその人気を引き継がせた。

パッテイの出演はたとえ一場のステージであっても、それだけで聴衆の動員が保証された。五十年の長きにわたって世界の檜舞台に君臨したこのプリマドンナの出演を、恤兵音楽会の主催者がどれほど丁重に考えていたか想像にかたくない。チャーチル卿夫人は環の《リゴレット》について容易に承知しなかった。

夫人の説明から「パッティがモーツアルトのアリアをうたうから貴女は日本の歌にしてほしい」という意味が環にはどうしても納得できない。

このような時、日本人はしばしば押し黙ってしまう。パリ万博参加公演の折、川上貞奴が沈黙でギャラの値上げを引出したように、環の沈黙にレディ・チャーチルもついに根負けした。

サー・へンリー・ウッドの提案したプログラムに印刷しないことを条件に「それほど貴女が御希望ならおうたいなさい」ということになった。レデイ・チャーチルの困惑の気持の理解できない環は、無邪気にお礼を述べてチャーチル邸を辞した。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。