この感覚的な合理性と、慣習的合理性のずれに、対象認識のちがいや判断の相違が生じてくる。二人のこの立場は常に妥協を許さずに夫婦の愛情と絡まりながら進行することとなる。

欧州第一歩

◦七月九日(木)

マルセーユの女も随分きたないのが多い。ひげのはえているのもあった。

◦七月十日(金)

仏国の汽車はどうも美しくない。昨夜乗る時は夜だったので気がつかなかった。今朝起きて見ると、顔を洗うにも水があまり少しで黒烟が洗面器に一ぱいついていて、とても手が出されない。

汽車は、マルセーユに着いたのをそのまま掃除もせずに私共を乗せて、またベルリンに向かうのである。日本ではとても見られないことである。

三浦夫妻は七月九日にマルセーユに到着、ヨーロッパにその第一歩を印した。六月末スエズのポートサイドでオーストリアの皇太子の事件を聞いた時は、急に眼前をふさがれた気持ちで、果たしてベルリンで勉強ができるものか、とにかく行ってこの目で見なくてはと緊張の連続であった。(5)

マルセーユから陸路一五○○キロを汽車に揺られてベルリンへ向かう。途中リヨンで行先をパリに取れば、十日のパリ祭を見ることもできた。

実は前年五月からパリに滞在している島崎藤村(一八七二〜一九四三)から「七月十日のパリ祭にお寄り下さい」との便りに接し、十分気持ちの動いた環だがここは、政太郎の判断に従った。(6)

藤村は明治三十一年に上野の音楽学校に学び、在学中ピアノ教師であった助教授の橘糸重との仲を取り沙汰されたことがあった。藤村の『平和の巴里』『戦争と巴里』などの通信文で当時のパリの情景を知ることができる。