「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環。
最近では朝ドラ『エール』にも登場し話題となりました。
本連載では、オペラ歌手として日本で初めて国際的な名声を得た彼女の生涯を、音楽専門家が解説していきます。
音楽評論家・田辺久之氏の著書『音楽のジャポニズム!~考証・三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、近代の日本において新しい女性像を作り上げた「蝶々夫人」のプリマドンナ三浦環を徹底解説! 今回は三浦政太郎・環夫妻がベルリンから脱出するまでの出来事について見ていきましょう。
ベルリン
七月十一日、ベルリンに着いた三浦夫妻は山田耕筰も下宿した家を住居とした。(7)政太郎は医学研究のため、カイゼル・ウィルへルム研究所に入る準備を始め、環は幸田延の紹介状を携えて田丸卓郎(一八七二〜一九三二)の計らいにより、リリー・レーマンを自宅に訪ねたが、夏休暇の避暑に出て不在であり、帰宅を待って再訪することとした。
三浦は研究所へ、環は下宿でピアノを弾きながらの声楽のレッスンをする。時折下宿のスミス夫人の客間に招かれて、ドイツの婦人たちと談合し、声が非常に美しいと褒められたり、窓ぎわで立止まって聞き惚れたがその声はフラウ・ミウラね、と言われたりして喜ぶ。
七月二十八日オーストリア、セルビヤに最後通牒を発し、続いて宣戦を布告
八月一日ドイツ、ロシアに宣戦布告
八月三日ドイツ、フランスに宣戦布告
八月四日ドイツ、ベルギーに侵入イギリス、ドイツに宣戦布告
このような状況の下に日本の去就がドイツ人の最大の関心事となってきた。道を歩く環に、見ず知らずのドイツ人が「貴女は日本人だろう。日本は国は小さいがロシアを負かした強国だ」と話しかけ「日本はドイツの味方になってくれるからドイツはきっと勝つわ」と抱擁してキスをする婦人まで現れる。
(7)三浦夫妻がマルセーユに着くと船会社を通じて環に執拗だった千葉秀甫からの手紙が届いていた。「貴方達が伯林にくるなら面目上自分は決闘せねばならぬ、無事を願うなら英国か佛蘭西へ行ってもらいたい。双方の為を思ってこの書面を送る」との内容であった。このため、夫妻は政太郎の友人に護られてベルリン入りしたという。生田葵「三浦環女史の愛人」(婦人公論第十五巻第二号)昭和五年一月四十五ページ山田耕筰談「三浦環さんの思い出」東京新聞昭和二十一年五月二十八日三浦夫妻の下宿先はシャルロッテンブルグ区役所の塔の横を曲がった袋路の右側三軒目。(前掲注(6)生田四十八ページ)
(8)外務省編『日本外交文書大正三年第三冊』二三六ページ(外務省昭和四十六年刊)八月十二日加藤外務大臣より在独船越臨時代表大使宛「不日開戦ニ付引揚準備内々手配方電訓ノ件」打電。八月十四日在英井上大使より加藤外務大臣宛「在独日本邦人及留学生引揚ニ関シ船越臨時代表大使ヨリ報告ノ件」返電。
(9)読売新聞「三浦環女史避難の模様」大正三年十月十四日(大正編年史)