海老茶の袴=自転車美人=音楽学校の図式は当時の上流家庭子女の一種の羨望のまとでもあった。(※14)柴田環によってこの図式が作り出されたことは確かである。

彼女自身このことをどのように受止めていたであろうか。晩年の回想を引用する。(※15)

当時女が自転車に乗るのは珍らしく、殊に女学生で自転車に乗るのは私と、後で女の小学校の校長さんになった木内キャウ(注・一八八四~一九六四)さん位だったので、大変な評判で自転車美人だなんて新聞は書きたてる。

私の通る道にわざわざ見物に来る人がある、殊に上野の山下の三枚橋、あの日活館のあったとこでその昔佐倉義民伝の木内宗吾(注・木内惣五郎?~一六四五)が駕籠訴訟をしたところですが、大学生がわざわざ見物に来る騒ぎです。

見物に来るうちはまだよかったのですが、だんだん自転車美人の評判が高くなるにつれて、付文をする者が出て来たり、風雲堂と云ふ薬屋の息子さんが私に恋わづらひをしてとうとう死んぢまったとか、私がなんにも知らないのに世間のうるさいといったらお話にならないのです。

そうかと思ふと「女のくせに生意気だ。闇の夜を気をつけろ」なんて脅し文句を私の袂に投げ入れる書生もありました。

さらに話は展開する。

上野の音楽学校と、美術学校の男生徒はとても茶目で私のことを「タマちゃん、タマちゃん」と云ってひやかしてゐるうちはよかったんですが、だんだん悪戯が嵩ふじて、しまひには往来を横に一列になって通せんぼうをする。

私がそれをよけて右へ行くと右へ、左へ行くと左へ立ちふさがってとうとう上野の精養軒のわきの溝の中に、自転車ぐるみ私を落っことして手を叩いて大笑いするんです。憎くらしいのなんのって、その悪戯者の中では山田耕作さんなんかが餓鬼大将だったんです。

この話は環が研究科に在籍しているころのエピソードである。