第一部 生涯と事蹟

第二章 音楽学校時代

三 自転車通学

それでは悪戯者の餓鬼大将と決め付けられた山田耕作(一八八六~一九六五。耕筰と改名したのは昭和五年五月から)はこの一件をどう把えているのか。

昭和十年刊の『耕筰楽話』には特に「自転車美人転覆事件」と項を起こして次の回想が記されている。(※16)

美校の先生が牛の歩みで通う同じ上野の山内を、当時は文明の尖端であった自転車を、しかも妙齢の美女環さんが走らせるのだから評判にならない筈はない。しかし私たちにとっては、それはいい悪戯の目標でしかなかった。ある日、私たちは山内で自転車に乗った三浦さんに行き合った。

「それッ」と、私の目くばせをうけるまでもない。突嗟に美校と音校の聯合軍は腕を組んで自転車の行く手を遮って終った。三浦さんが右へかはそうとすれば悪童たちはその方へ寄る。左へかはせば左へ追ふ。

スクラムを組んだまま道路を右へ行き左へ行き、この動く関所は自転車の通行を許さなかった。追い詰められた三浦さんは、とうとう操縦の自由を失って精養軒の傍の溝の中へ自転車もろとも落ち込んで終った。

その後の『耕筰随筆集』では、この溝の中を浅い空溝と補訂し、さらに昭和二十五年にはそれらをまとめて『自伝・若き日の狂誌曲』として出版した。