第一章 三億円の田んぼ

葉子は、仕事柄、あちこちの酒蔵を見学している。だが、その中でも、烏丸酒造は群を抜いて清潔だった。

屋敷に隣接した酒蔵の建物は、白い漆喰の壁に、黒い瓦葺きの屋根。見上げるほど屋根が高く、建物の幅も広い。

土蔵には、土作りの分厚い観音扉が、左右に開いて固定されている。その内側にある格子戸は、自動ドアだ。外気から、蔵の中を遮断している。

外は秋だが、蔵の中は真冬の気候だ。入った瞬間、ぶるりと身体が震える。寒造りという言葉があるように、気温が低いと、質の高い酒造りができるのだ。

中の白壁には、茶色い木の柱と梁が、格子状に埋め込まれて、コントラストが美しい。

入り口に大きく「土足厳禁」の文字。葉子たちは、蔵の中に入ってすぐに、室内履に履き替えた。そして、頭に使い捨ての防塵キャップを被って、白衣を羽織る。薄い布一枚着ただけでも、蔵の中の寒さが、多少ましになった。

昔ながらの木造建築だが、整理整頓が行き届いたうえ、埃一つ落ちてはいない。

「酒造りで一番大事なのは、何だと思いますか?」
蔵の中を歩きながら、秀造が振り返って、葉子たちに尋ねてきた。

「一に麹、二に酛(もと)、三に造りって言いますから、麹じゃないんですか?」

珍しそうに、キョロキョロと蔵の中を見回していたトオルが答える。
一に麹、云々というのは、大昔から酒造りで唱えられて来た常套句である。

「うちの蔵は、一に掃除、二に掃除だね。きれいな酒質は、清潔な蔵に宿るって言うし」
「確かに!」

四人は、大きくうなずいた。天狼星醸造元、烏丸酒造。この蔵の酒質は、どこまでもきれいだ。

「どこの酒蔵も似てるけど、うちの蔵もざっと六つの部屋に分かれます。米を洗う洗米場。洗った米を蒸す釜場。麹を作る麹室(こうじむろ)。酒母(しゅぼ)造りのための酒母室。仕込み蔵。それと酒を搾る槽場(ふなば)」

多田杜氏の落ちたタンクは、仕込み蔵に置きっぱなしだという。途中にある洗米場が、賑やかだった。大勢の蔵人が、立ち働いている。

秀造が、足を止めた。
「ちょうどいい、洗米をしてます。少しだけ、見ていきましょう」

洗米場は、小学校の教室ほどの広さ。天井は高く、天窓から外光が入る設計で、部屋は明るい。コンクリートの床は、厚く防水塗装され、じゃぶじゃぶと水が流されていた。

 

五、六人の蔵人が忙しく立ち働いている。全員、白い帽子に白作業着の上下。真っ白いゴム長靴を履いて、頭のテッペンから足の先まで白づくめだ。何人かが、一抱えほどもある銀色のカゴを持っている。中は真っ白い粒、酒米だ。十キロぐらいだろうか。

「うちの蔵は、今年の仕込みが始まったばかりです。これから来年の六月まで、長丁場になります」
「この酒米は、何? どんな酒になるの?」
「山田錦の六十パーセント精米。純米酒用ですよ。ヨーコさん」

大粒の酒米も、外側四十パーセントを削ると、かなり小さく丸くなる。

「酒米を、まずはたっぷり冷水を使って洗います」

蔵人が、部屋の中央に輪になって並んだ。輪の内側には、水を張ったステンレスのタライが、各自一つずつ置いてある。そのタライの水に、銀のカゴごと酒米を漬けた。そして、素手で酒米を研ぎ始める。

 

そっと触れるように優しく、しっかりと、汚れと糠を落としていく。
米を研ぎ終えると、かけ声と共に一斉に、タライからカゴを引き上げた。そのカゴを、部屋の端に設置された水槽に浸す。

洗い終わった酒米を水中に浸し、水を吸わせるのだ。
タイムキーパー役の蔵人が、ストップウォッチを押す。吸水時間を、計るのだ。限定吸水と呼ばれる、秒単位で水に漬ける時間のコントロール。

この水の吸わせ加減一つで、蒸し米の仕上がり具合が決まる。そして、ひいては麹造り、酒母造り、三段仕込みにまで、影響する。つまり酒の善し悪しのすべてが、決まってくるのだ。

数十秒後、タイムキーパーの合図で、米が水から引き上げられる。カゴの下から、ザァーっと水が垂れ滴る。蔵人たちは、各々のカゴを木製の台に乗せた。米の水を切るためだ。

水に濡れて、キラキラと光る酒米は、小さな真珠のよう。一粒一粒が、光を乱反射して、眩く輝いている。そして、水が切れるに連れて、輝きはしっとりした美人の肌のように、白く滑らかな風情へと変わっていく。

洗米後、水を吸った酒米は、一晩おいておく。次の朝、甑(こしき)と呼ぶ蒸し器で蒸し上げられるのだ。洗米場のすぐ隣、釜場での作業。直径三メートルほどの大きな釜が、半ば床に埋まっていた。まわりに、人影は無い。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『山田錦の身代金』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。