「最近、手に入れたばかりの車でね。時間ができたから、今日は近場を走ってみようと」
「山口県から、ここまでが近くですか?」

これには驚いた。軽く三百キロ以上は、離れている。

「うん。兵庫まではね。ちょくちょく走りに来るんですよ」
桜井会長は、眩しそうに辺りを見回した。稲刈り跡と、黄色い稲刈り待ちの田んぼが、入り乱れている。
「この辺りは、山田錦の故郷だからね」

そう、獺祭の旭酒造は、山田錦しか使わない酒蔵なのだ。

「その年の作柄を見たり、いい田んぼがあったら、どなたのか知りたいし。田んぼを見ながら走ってて、飽きることがない」

ラジオのクラシックが終わり、ローカルニュースに代わった。

「今年の作況指数は……」

途切れ途切れに、不作という言葉が流れてくる。
タミ子と富井田課長は、車から降りてこない。世間話でもしているのだろうか。

「この辺りは、いい田んぼに飯米が多い。もったいないなあ。山田錦の最適地だから、作って欲しいな」

桜井会長は、稲刈りの終わった田んぼを指差した。飯米は、早生(わせ)品種が多いのだ。
刈り取られた田んぼは、枯れた稲株だけを残し、土面は乾燥し切ってひび割れている。生命感が無く、ポカンと空虚だ。どこか、寂寥感が滲み出ていた。

「この辺が、山田錦の生まれ故郷だからですか?」

「それもあるけど、ここは瀬戸内気候だから、温暖で日照がいいでしょ。その割に、寒暖差もある。標高が少し高いからね。それと南の六甲山脈と、北の中国山地の間に挟まれてるから、東西に風が通る。日本中の田んぼを見て歩いて来たけど、ここほど山田錦に適した土地はないね」

日本中の田んぼを見て歩いてきたのは、決して誇張ではないだろう。
ニュースが、米の作況指数から、脱法ライス中毒者の話に移った。どこかで、事故を起こしたらしい。

「ヨーコさんたちは、ここで何してたの?」
「田んぼの草取りです。烏丸さんとこの」
「天狼星?」

葉子とトオルが、うなずく。

「おおっ、素晴らしい田んぼだよね。車を停めて、よく眺めさせてもらっているんだ。最高の山田錦の田んぼ。羨ましいなあ。僕も、草取りさせてもらいたいくらいだよ」

桜井会長の目が、キラキラ輝いている。本当に羨ましいらしい。

「これから、蔵に戻るんですけど、桜井さんも寄って行きませんか?」
「ありがたい、そうさせてもらおうかな」

乗って来た車の運転席のドアが開き、富井田課長が転がり降りてきた。

ようやく桜井会長が、誰だか気づいたらしい。課長は慌てて会長に駆け寄り、名刺を差し出し、にぎやかに自己紹介を始めた。