国際仏教文化協会

東京での生活を終えて実家に帰る前に、京都で三年間仏教を、特に親鸞の教えを学んだ。

そのとき大学の先生から、私がいくらか英語とドイツ語が理解できるということから、国際仏教文化協会の事務の手伝いを紹介された。

この協会は、ヨーロッパ在住で元はキリスト教徒だったり、ヨーロッパの文化のなかで育ったけれど、親鸞の教えに出会い、信仰をもって活動をしたりしている方々を支援するために作られたものだった。事務局をもっていたのは教育学の元教授で、私の祖父から真宗学を学んだということだった。

祖父は大正から昭和にかけて、京都にある龍谷大学で真宗学を講じていた。一九二七年から翌年にかけては、ハワイと北米の移民団のための伝道に出かけた。

現在境内入り口に、高さ三メートルほどの二本の石柱が立っている。そこには「歓迎当山住職米国伝道帰朝」と「寄附檀信徒有志昭和三年六月」と彫られている。また境内には、顕彰図書庫も寄贈されて建っている。その後も台湾や樺太(サハリン)、それに満州・朝鮮半島にも伝道と研究のために出かけている。

一九四〇年四月には、中国杭州に青年僧侶を育成するための「日華仏教綜合学苑」を創設して戦時下でも活動をしていたが、終戦前の一九四五年二月、周囲のすすめがあり帰国した。

しかしこのときの過酷な条件下での帰国によって体調を崩し、翌年十月に往生のかいを遂げている。このとき六十三歳で、私がこの世に生を受ける十年前のことだった。祖父はまた、子どもたちを育てる活動も熱心に行っていた。すでにキリスト教の教会で行われていた「サンデースクール」を模して、一九一二年に京都での「日曜学校」開設に関わり、島根の自坊には、一九一七年に日曜学校を開いて、地域の子どもたちを集めて活動していた。

昭和の初めに、すでに海外経験が豊富だった祖父だが、私は国際仏教文化協会で事務の手伝いをした縁で、初めての海外体験をドイツから始めることができた。ドイツのなかで日本人が一番多く住んでいるのは、オランダとの国境の近くにあり、ライン川河畔の都市デュッセルドルフである。

現在そこに「こう日本文化センター」があり、恵光寺という浄土真宗本願寺派様式の本堂が建っている。その本堂に、ご本尊「阿弥陀如来」を安置する入仏法要が勤められたのは一九九二年九月二日のことだった。

ドイツは一九九〇年に西ドイツと東ドイツの統一がなされていて、まだ経済的な影響が残っているころだった。その法要に参拝する旅行団員として、私にも声をかけていただいた。

こんなところで、ドイツ語を学んでいたことが役に立った。

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