第二章 回り道のふしぎ

東京仏教学院

ともかく、家庭教師をすべて断って、あまり気持ちが乗らないまま、仏教学院に通いはじめた。築地本願寺の暗い廊下の奥のさらにまた奥にある教室だった。

入学の要綱に「皆勤賞あり」とあったので、ただひたすらそれをめざして通った。

ある授業で、先生が黒板に「執着」と書いて、「これは普通には『しゅうちゃく』と読みますが、仏教では『しゅうぢゃく』と読みます。このことばがわかれば、仏教がわかります」といわれた。

なんのことだ。これがわかれば仏教がわかる。まったくわからないまま、日が過ぎていった。広辞苑によれば「強く心をひかれ、それにとらわれること」とある。時々思い出しては、なんのことだろう、と考え続けた。

ある日ふと「このことばの意味はなんだろう、と考えているそのことが執着なのではないか。このことばにとらわれていることが、つまりは執着ではないか」と気がついた。

そして「家から遠く離れたい。仏教なんか勉強したくない」と思い続けること、そのことが執着そのものではないか、と気がついた。そのときフッと肩から力が抜けるような感覚を得た。ふしぎな感覚だった。

仏教は、理解することや知識として知っていくことではなく、自分の姿として味わっていくことだ、と学ぶことができた。少しずつ学院に通うことが楽しくなり、義務で足を運ぶのではなく、自分の意志として教室に向かうようになっていった。

あるとき、浄土真宗の教えを説いた親鸞のことばが書かれている本を見ていると、「モノノニグルヲオワエトルナリ」という言葉に接した。これは「逃げていく者を追いかけていって、捕まえて放さない」という阿弥陀如来のはたらきを示していることばだった。なんだこれは。私自身のことではないか、とおどろいた。

阿弥陀如来に背を向けて、どんどん逃げようとしても、阿弥陀如来は先回りをして、しっかりと抱きとめてくれる、そんな存在だと実感できた。

家からできるだけ遠く離れたところに行きたい、との思いで東京に出てきたはずなのに、私は築地本願寺の阿弥陀如来に捉えられてしまった。回り道をしたから、捕まえられたのだった。