発問とは授業中における答えがある程度想定できる「96 ÷ 16の計算はどのようにしたらよいか」というような問であることが多く、質問は「今日の朝食は何でしたか」というような、答えの予想できない問のことです。そうすることで、子どもたちの発言に、演技抜きで感動できるようになり、子どもたちにも自己肯定感が育まれていきます。

どんどん話したくなって(主体的)、子ども同士や子どもと教師のやり取りが盛んになり(対話的)、話題もどんどん広く深くなっていきます(深い学び)。自由にやり取りできる環境を保障すると、対話を通じて子どもたちはどんどん深く広く考えていけるのです。

ある先生から聞いたことなのですが、「主体的・対話的で深い学びが重要ですから、取り組んでいきましょう。しかし、いっぺんに取り組むのではなく、一つずつ絞って、今年は主体的な学び、来年は対話的な学び、そして3年次目に深い学びの研修をしていきましょう」という指導を受けたというのです。

これらが分離できるものでないことは、先に述べた「席を譲る」話を見れば明らかです。そうした誤謬(ごびゅう)に振り回されることなく、まずは、自由に対話をできる環境をつくること(1が、主体的・対話的で深い学びそのものになる可能性があるということです。そして、その中の一員である教師も、子どもとともに育っていくことになるのだと考えます。

その際、必ずしも深い感動を得ることばかりが目指される必要はありません。ある楽曲を話題としたときに、その曲に関わる感動ばかりではなく、その時代の世相や友達との記憶も、子どもたちの資質の一部になっていくからです。授業としては、他人とやり取りしたということ自体が楽しく充実したものであったならば、楽曲はその「きっかけにすぎない」のではなく「きっかけとして貴重」だったということでよいのだと考えます。


1)タブーなく語り合えるようにすることが重要ですが、子どもですから、当然好ましくないことを口に出すことがあるでしょう。それが単に俗にいう「放送禁止用語」的なものであれば、やんわりと「その言葉は教室の外で使うと品性とか常識を疑われることがあるから、そのことは覚えておこうね」と教えればよい(ここが「教える」の出番です)し、内容的に考えなければならないことであれば、それさえもきちんと話題にして考え合えばいいのです。その際、教師は、「それはだめだよ」と最初からいうのではなく、反例を提示してみんなで考えていくようにすると話が深まっていきます。