第一章 世界自然遺産の島「おがさわら」

二 先人たちの歩み 2 ペリーの来航と辺境開拓の足跡

小笠原貞頼の発見から二四〇年近くを経て、セーボレーらによる定住時代を迎え、その後、アメリカ東インド艦隊司令長官であったペリー提督が小笠原に来航します。

江戸時代末期、国中を騒然とさせたペリー艦隊は、浦賀に向かう途中の嘉永六(一八五三)年六月十四日、父島・二見港に来航し四日間滞在しています。その際、石炭貯蔵用地を購入し、島民のために牛、羊、山羊などを与えています。

そして、約一箇月後の七月八日、浦賀に現れることになるのです。余談ですが、ペリーの旗艦から放たれたとされる大砲の弾である鉄球が、返還三五周年記念事業の一環として平成十五(二〇〇三)年八月に開催された「テレビ東京『出張! なんでも鑑定団in小笠原』」に出品され、鑑定士が二〇万円の鑑定結果を出しました。

表面が錆びて若干軽くなった鉄球を、セーボレー家五代目の直系子孫が大事に保管していたのですから、何ともユーモア溢れる話ではありませんか。二見港背後の公園敷地には、「ペリー提督来航記念碑」があります。

写真を拡大 ペリー提督来航記念碑

平成十五(二〇〇三)年は、ペリーが小笠原に来航して記念すべき一五〇周年の佳節の年でもあったのですが、返還三五周年ばかりが前面に出て、来航一五〇年の方はかすんでしまいました。

明治九(一八七六)年になって、国際的に小笠原が日本領土として認められ、内務省出張所が設置されます。これにより日本史上初めて、欧米人とその子孫が「日本人」となったのです。

その出張所はわずか四年で廃止され、代わりに小笠原支庁の前身である東京府小笠原出張所が設置されます。

現在、辺境開拓の経緯、名前の由来などを記した大久保利通の撰文による「開拓小笠原の碑」が、扇浦に二見湾を見つめるようにひっそりと建っています。

写真を拡大 開拓小笠原の碑

その後、昭和十九(一九四四)年の最盛期には、父島、母島、硫黄島などの島々に約七〇〇〇人もの住民が暮らす時代を迎えます。

しかし、小笠原諸島が、第二次世界大戦における南方の重要な最前線基地となったことから、平和な生活も永く続くことはありませんでした。