おーい、村長さん

早朝、眠い目をこすりつつ新宿駅からJRに乗った。電車はビルの谷間を抜け住宅街を通過し、のどかな田園風景の中を西へと向かってゆく。聞いたこともない終点の駅で下車し、バスに乗り換える。バスは人里を離れ、深い山の奥へと入って行く。

しばらく上り坂が続きエンジン音がけたたましく山の中に響き渡る。乗客は私を含めて三人のみ。バスに乗ってからすでに一時間ほどが経っていた。

「次は役場前、役場前」

アナウンスの声が車内に響く。私は一人バス停に降り立つと、透き通るような青い空と深緑の山々に囲まれた。穏やかな風が森の匂いを運び、近くを流れる川のせせらぎに心も癒される。都心では信じられない静寂がここにはあった。

「本当に、ここが東京なんだ」

空を見上げながらぽつりとつぶやく。

私は権田原正二、四十五歳。フリーターで独身。身内の大事な話を伝えるため、東京都内で唯一の村「日野多摩村」へとやってきた。正確にいうと、東京都の小笠原諸島に村はある。だが、本州で都内の村はここだけ。市でも町でもない理由が現地に来てわかった。

雄大な景色を眺めつつ、ゆっくりと村役場へ向かって歩き始めた。日差しもやわらかく、やさしい空気が私を包み込んでくれた。立派なヒノキやスギが山を覆いブナやカラマツも生息し、足元には黄色いヤマブキの花が咲いている。草木の香りに心も和み、どこからかウグイスの鳴き声も聞えてきた。

私は、少しだけ緊張しながらも着慣れない紺のスーツに赤いネクタイといういで立ちで村の役場を訪れた。役場の正面玄関から中に入ろうとしたときだった。見覚えのないおじいさんから突然、声をかけられた。

「おかえりなさい」

(えっ。誰だろう)

すると別のおじいさんからも

「ちょっと痩せたかい」

(体重は昔からほとんど変わってないのだが)

親し気に話しかけられた。私は仕方なく愛想笑いでごまかす。

(誰だよ。知らないよ)

そのあと、すれ違ったおばあさんには

「元気になったね。村長さん。本当によかった、よかった」

突然、手を握られ涙まで流されてしまう。

(えっ。確かに兄とはよく似ているが、明らかに勘違いをされている)

すると役場の幹部らしき白髪の男性が小走りで近寄ってくる。

「村長。ご連絡くださいよ。お迎えに行きましたのに」

両手でがっちり握手をされた。また、他の年配の男性職員は「みんな心配していましたよ。村長がいないと村全体がずっと重苦しい雰囲気だったんですよ」と、これまた涙ぐんでいる。

(兄貴、すごい人気じゃないか)

まるでキャンプ地に到着したプロ野球チームのような歓迎ぶりである。