【前回の記事を読む】抗議のために自死する者まで現れて…105日にわたった労働スト

第二章独身時代、青春を謳歌する―日本復興の熱気の中で

社会の荒波に揉まれて

さが空回りして

夕方になると今度は社長がやって来た。そして一言。

「今日は二十五日だから、月末まで寮にいていい。その間に職を探しなさい」

あっさりとクビである。私たち十代の若者が数人で反旗を翻したところで、会社にとっては痛くも痒くもなかったのだろう。後悔しても後の祭りである。

二十六日の夜、今後について話し合った結果、各自故郷に帰ることとなった。みんな寝入っても自分はなかなか寝れず二時頃トイレの窓を開けたらはるか彼方にブラザーミシンのネオンサインが一ヶ所ポツンと見えて、夜空の星がきれいで近江絹糸の事を思い会社側で頑張るべきだったのかなぁと……。部屋に戻ると六人の寝顔が何だか淋しそうにみえるのである。

神戸われて川崎製鉄・葺合工場

故郷に戻って仕切り直しをすることにした。若さゆえの部分もあるが、世間知らずだった私は、突然放り出された社会の中で、人や社会に流され、右往左往してしまったのだろう。ここは一つ原点に戻り、もう一度自分は何をするべきなのか、考える時間が必要だった。それでもいざ地元に帰ると、一度は都会に飛び出した自分には、知った顔ばかりで遊ぶ場所も少ない田舎町で暮らすことが窮屈になってしまった。まだ十代の若者であるから、それも仕方のないことだろう。

母は家族を支えるために一生懸命に働いている。すぐ下の妹は中学生、その下の妹はまだ小学生である。家にいても肩身が狭いだけだ。これではいけないと、いろいろと新聞などで求人情報を探していると、川崎製鉄株式会社(現・JFEスチール株式会社)が工員を募集しているのを見つけた。戦後に川崎重工から独立してできたのが川崎製鉄である。神戸に本社がある大手鉄鋼メーカーで、「川鉄」の名で親しまれている大企業だ。

これからはビルや道路や橋が、鉄によってどんどん造られていく。鉄鋼はこれから確実に伸びていく産業である。近江絹絲で痛い目を見てはいたが、歴史のある日本を代表する大企業なら、さすがに間違いないだろうと思った。試験を受けると、見事に合格。昭和三十一(一九五六)年三月、私は家族に別れを告げて、再び故郷を離れた。十八歳の春である。

私は兵庫県にある葺合工場の厚板課に配属された。阪神工業地帯にあった葺合工場は、会社の寮から電車に乗って二十分ほどのところにあった。前に働いた近江絹絲も最初見たときはとても大きな工場であると思ったが、それとは比べものにならないほど広い敷地に何棟も工場が建っている。まるで一つの町があるような工場であった。