第一章 発端

夜になりました。庭に面した縁側に座布団を持ち出し、私は缶ビールを開けました。東の中空に真ん丸な月が大きく顔を出しています。今宵は満月のようでした。まだ空の低い位置にあるせいか、月の色は黄色や白ではなく、赤みの強いオレンジ色です。

「人生はオレンジだ、か」

以前刑部所長に聞いた映画の中のセリフがふと頭をよぎりました。空に浮かぶ濃い色の大きな満月は、本当にオレンジの実のようにも見えました。猛暑だった今年の夏はすっかりなりを潜め、庭には秋が忍び寄って来ています。徐々に高度を上げ、オレンジ色から青みがかった白い色に変わった満月の光は思った以上に強く、庭の様子を明確に照らしてくれました。

浜村さんが住んでいた頃に植えたものなのでしょうか、芸術的な枝ぶりの楓や松、小さな竹林のようなスペースもあって、また石を組んで簡単に(しつら)えた花壇のような一角には菊やダリア、萩などの秋の草花が季節を告げています。秋が深まればこの庭の落葉樹は美しく色づき、錦絵のような景観を繰り広げて楽しませてくれるのではないか。

奥様を亡くされたというご事情があったとはいえ、娘さんの住むマンションに引っ越された浜村さんには立ち去りがたい気持ちもあったはずです。この家での暮らしをあの人なら満喫していただろうと私には思えました。

この古式ゆかしい家の縁側でひとり月を眺めていると、まだ赴任して二ヶ月過ぎただけなのに東京での暮らしがずいぶん遠くに感じられます。ここに来る前には「東京に帰る前提での一過性の仮住まい」と思っていたのが、今では「(つい)棲家(すみか)」のように思えたと言っては早計過ぎるでしょうか。しかしそれほどに月ノ石町での生活は、私の想定をいい意味で裏切ってくれていたのです。

明日の日曜は、浜村さんが言っていた海岸沿いの松林を訪れてみよう。《聖月夜》の作者を探すヒントが見つかるかもしれない。満月の強い光と、飲み干したビールでいい気分に酔った私は、その晩夢も見ずに熟睡しました。