縁の下の知力持ち

価値基準

知り合いから漫才独演会のペアチケットをもらった私は、笑い上戸の友人、三菱さんを誘い、会場へ赴きました。プログラムは、前座が十五分、真打ち四十分の二段構成。今宵の前座は、絶賛ブレイク中の大型新人だそうです。

「布団が吹っ飛んだ!」

前座渾身のギャグに、会場は大賑わい。三菱さんなど、笑いすぎて過呼吸に陥ったほど。

《そんなに面白いかなァ》

私は笑いの波に乗れずにいました。どのネタも小学生が考えたみたいでシックリきません。逆に真打ちの小気味よい語り口には感銘を受けましたが、会場は宇宙空間のように静寂無音。御大が不憫でなりません。

帰りの列車の中で、三菱さんに前座の評価を尋ねますと「そりゃあ面白いわよ。テレビで評判だもの」

真打ちの評価を尋ねますと「面白くても笑ってあげない。妻子持ちなのに、五人の女性と浮気して。他のお客さんも、同じ見解のハズよ」

私は悟りました。観客は芸ではなく、人品を見ている。上手い下手は二の次で、世論に従って笑っているのだと。

そのことを三菱さんにいいますと、彼女は「本当に面白ければ、どんな人柄でも笑うわよ」と一蹴。私は大いに頷きました。

迷子

この手のお話は、本来オカルト雑誌か、実話怪談系列に投ずるべきでありますが、怪奇としては余りに穏健、恐怖としては余りに安泰なため、スリル・ショック・サスペンスを求むる勇者諸氏には、いささか刺激が足りぬと判断いたしました。 さりとて、封印するには惜しい性質を秘めておりますゆえ、畑違いと存じつつ、粛々とペンを執った次第です。

今から三十年ほど前。 まだ私が、未就学児だった頃のことです。 ある夕暮れ。近所に住む一歳年上のお兄さんの家に遊びに行った私は、帰り道がわからず、途方に暮れていました。

彼とは顔見知りの間柄で、特別親しい訳ではありません。偶然立ち寄った公園で、彼の一派に接近遭遇。「家に遊びに行こーぜ!」の流れに乗じて、見知らぬ道を、トコトコついていったのでありました。

午後五時になり、一派は散り散りに帰宅。いっしょにおいとました私は、ポツネンと取り残されてしまいました。最初はカンを頼りに、冒険気分でまい進しましたが、どうも様子がおかしい。右へ左へ進んでいるのに、いつの間にか、元の地点に戻ってきてしまうのです。今なら方向オンチで済まされましょうが、当時は呪いをかけられた心境でした。

徐々に陽が落ち、景色が暗くなります。私は、心配しているであろう両親への申し訳なさと、自身の行く末を案じて、ベソをかきかき。 この地域は林が点在し、見通しが悪く、えもいわれぬ不気味さがあります。避けて通りそうなものですが、楽天家の私は、先の見えぬ雑木林を前にして、こう思ったのです。

《ここを通りぬければ、知ってる場所に出られるかもしれない》

私はサンタクロースを信じていました。摩訶不思議な魔法や、前向きな奇跡や希望を信じていました。一寸先の闇にとびこみ、明るみに転ずる自信と度胸があったのです。行くなら早い方がいい。完全に夜になると……うぅ! 私は魑魅魍魎を信じていました。 意を決して木々の迷宮に踏みこみますと、長い長い登り坂がありました。この小高い山を、登って、登って、登って、登って……。 お兄さんの家に行った際、山など登りませんでした。そもそも平地つづきの土地に、山など存在し得ないのです。 常人なら不審に思い、いそいそと引き返すでしょう。けれども未就学児の頭は、どこまでもおおらかで、凡百の天才より柔軟にできています。

「こういうこともあるさ」

幻の山の出現なぞ意に介さず、無事登頂しきった私は、切り立った崖の上から真下を見おろしました。そこから見えるは、目指すべきわが家と、その近辺。まるで雲の上から下界を一望するかのように、地元周辺の俯瞰図が広がっていたのです。 この光景を見て、私は不思議にも、恐怖が薄まりました。

「なんだ、ウチなんて山を降りてスグじゃないか!」

小走りで下山し、雑木林を突破。わき目もくれず、わが家へ向かいます。天啓を授かったのか、不安など、これっぽっちもありません。アッチだ!コッチだ!と、真実の道を、正確にたどり当てます。やがて見知った場所に出、わが家へ帰還。家の前で、心配した母親が待っていてくれ、私はエンエン泣きながら、胸にとびこみました。

この体験を、約三十年、胸の内にしまってきました。他人に話そうものなら、たちまち変人の烙印を押されてしまいますから。 当時の私は、こう解釈しました。山に住む何者かが、迷える子羊を哀れみ、無事に帰宅できるよう、知恵を授けてくれたのだと。

その後、件の山へ通ずる雑木林に幾度も足を運びましたが、どこまで行っても木々が生い茂るばかりで、隆起する箇所などありません。私はあの時、白昼夢を見ていたのでしょうか。それとも、三十年も昔のことで、夢と現実がゴッチャになり、一つのおとぎ話に昇華してしまったのでしょうか。

ときどき思うのです。私は迷い迷って、次元の異なる世界へ足を踏み入れてしまったのではないかと。もし、下山した方角が、後ろではなく、前だったら……いやいや、それ以上は考えますまい。 雑木林は現在伐採され、有料駐車場に変貌しました。冥界行きの扉は、今宵はどこで迷子の到来を待ち構えているでしょう。

【前回の記事を読む】【小説】花も恥じらう少女を襲った「おそろしい伝染病」とは…