【前回の記事を読む】松尾芭蕉との意外な縁?三角おむすびの発祥の地は川崎だった!

木曽塚にて

 

「骸は木曽塚に送るべし。」これが松尾芭蕉の遺言だったという。一六九四年、芭蕉は大阪御堂筋の花屋仁左衛門の屋敷で五十一歳の生涯を終えた。翌日、去来、其角ら十数人の弟子たちは川舟と陸路を使って遺骸を大津の義仲寺に運び、遺言通り木曽義仲の墓の隣に葬った。

最近、琵琶湖辺りを旅行の途中、義仲寺に立ち寄った。山門をくぐると、ささやかだが手入れの行き届いた寺庭の中程に二つの墓だけが寄り添うように並んでいた。左側はやや丈高の木曽義仲の墓、右側の自然石のような三角の黒い石が芭蕉の眠る墓であった。

義仲の寝覚めの山か月悲し 芭蕉

「平家物語」には数多の滅びゆく人間の哀れが印象深く描かれている。木曽義仲もその一人である。朝日将軍と呼ばれ源氏一族として獅子奮迅の働きをしながら、その粗野な振る舞い要領の悪さ故に源氏方の手により最期を遂げる。義仲との別れに際し鎧姿で戦う愛妾巴御前の武勇もよく知られた話である。

芭蕉が少なからずこの悲劇の武将に心を寄せたことはいくつかの彼の句からも察せられる。義仲が葬られたこの寺の墓の近くに、ひとりの女が草庵を結び義仲の菩提を弔った。名を名乗らなかったこの女性こそ巴御前の後の姿であったという。

尼の死後、庵は「無名庵」と呼ばれたことは鎌倉時代の文書にも見られるそうである。松尾芭蕉はここをしばしば訪ね宿舎とした。そしてここで度々句会を催している。

ゆく春を近江の人と惜しみける 芭蕉

有名なこの句からも想像できるように芭蕉の弟子はこの辺りにも多かった。この「無名庵」は、前に紹介した神奈川の「鴨立庵」京都の「落柿舎」と合わせ三大俳諧道場と言われる

木曽殿と背中合わせの寒さかな 又玄

又玄は師の遺骸を大阪から運んだ弟子の一人である。並んだ二つの墓は、今、寺の静寂の中でこんな風に語り合っているように思うのは私の考えすぎであろうか。

「諸行は無常なり……この寂滅を楽と為す……」

二〇一二年十月