二十

《考えたことを書くというのは、意識のどのような転換があってできる現象であろうか。偉い学者に聞けば即座に回答してくれるにちがいないが生憎それらしい知人も見当たらないので、凡庸な吾の頭でよしなしごとを思ってみたりして、暇をつぶしている。 我はここのところそのもととなる意識について考えている。

意識の共有、転位、連鎖、それらは起こり得るか、また起こり得た場合にどんな仕組みでそうなっていくか。さらには個人の自我といったものは、その過程においてどのような所在にあるのか。自我と意識は同一のものであるのか、といったことにとても興味と好奇心が駆り立てられるのです。

意識に所番地など打てないだろうと素人ながら予測しつつ……意識とはいったい何もんなんか……意識がある、意識がない、とかよく使われる。ある時は個体の脳にあり、ない、時はいったい意識は個体のどこにいったか、いったん個体から離脱していた意識がまたどこかから戻ってくるのであろうか。

なんだかあるようでない、ないようである、とらえどころのない存在が意識の本体のように思えてくる。たとえばカップにコーヒーが満たされている。そのコーヒーを意識とするなら飲み干されたら意識はカップから失われたことになる。しかし、コーヒーはそれを飲んだ人間の胃袋に場所を移動しただけだ。というなら意識は場所を変えているだけで、そこらじゅうにあるような気がしてくる。

またパーソナルから離れ、宇宙という視点になってみると、宇宙には原意識といったものがあるのではないでしょうか。意識の転位、置換、連鎖等を考えてしまうのは、どうもそのあたりにあるといえます。》

日々の連鎖のなかに、放り出した季節のかほり。眼を閉じると記憶の影たちが、ざわめき揺らぎながら、わだかまり、うずくまり、信号が変わるがわる、叫ぶ、吠える。筋肉の交わりが、変人変態偏屈夜会。チャレンジ家族。データ無制限。いつものいいこと。愛は絆。見つけた、捨て子同位体。Remember to you.