「いらっしゃい幸太君、今日はカウンター席じゃないの?」

オーナーの妻の今日子が水を持ってきた。ここのオーナーは越川龍一といい、年齢は幸太より十歳年上だ。元々は会社勤めのサラリーマンだったが、先代の父親が亡くなって店を継いだ。今日子とは同い年である。

「剛史と祐介が来るけえ、注文はその時に」

すると今日子は何を思ったのか、腰を折って顔を思いっきり幸太の顔に近づけた。子供の悪戯をとがめるような、きりっと見開いた今日子の目が、ほんの数センチまで迫ってきた。幸太は思わずのけぞった。クチナシの甘い匂いがして、コーヒーの香りとその匂いが混ざり、幸太は一瞬めまいを感じた。

「また何か悪だくみを考えとるじゃろ? 聞かれちゃまずい話?」

そう言って眉間に(しわ)を作った。いつもなら皆でカウンター席に座るのに、と思ったようだ。以前この三人でこの席に座って内緒話をしたことがあった。後にこの店の常連客がキャバクラでこの三人と出くわし、羽目を外して騒いでいたと告げ口をしたのだ。寡黙であまり喋らない龍一とは真逆で、今日子はずけずけ物を言う。けれどあっけらかんとして無邪気で嫌みがない。

「まあええわ。今日は三人じゃな?」

幸太は引き返す今日子の後ろ姿を眺めながら、「ふう」と息を吐いた。

この店は広くはなくむしろ狭い。窓際にふたつテーブルがあり、反対側に厨房とカウンターがある。そして入口の正面がトイレになっている。カウンターの椅子は六脚、ひとつのテーブルには四脚あり、合わせて十四人が座れるが全員座ると窮屈だ。だが幸太はこの店に思い入れがあった。

まだ七~八歳の頃だったと思う。友人たちと公園でキャッチボールをしていた時、ボールが道路に転がっていった。幸太がそれを追って道路に飛び出した瞬間、車が走ってきた。

「危ない!」という大きな声で立ち止まり、間一髪で轢かれずに済んだ。店の前にいた先代オーナーの声だった。

その時幸太たちは全員オーナーに呼ばれ説教された。幸太たちは皆しゅんとして縮こまっていて、中には泣き出す者もいた。オーナーはさすがに言い過ぎたと思ったのか、全員を店の中に誘い入れ、カツサンドとオレンジジュースをご馳走してくれた。幸太はその時のカツサンドの味が忘れられず、中学生になってから小遣いを握りしめて時々食べに通ったのだった。

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