薄幸の美少女

1年前、彼女は発熱と血痰で近くの病院を受診し、結核菌が確認されてすぐに転院してきた。高熱が1カ月も続いていた彼女の身体は痩せ衰え、顔色は蒼白く、間断なく咳き込んで歩くのもやっとという状態は「結核文学」に登場する「薄幸の美少女」そのものだった。

胸部レントゲン写真には荒廃し崩れた右肺と結核病変が散在する左肺が映し出されていた。それは私が見た中で最高度の変化だった。なぜこの若さでこんなことに、とまず思った。若年者の場合、(かたよ)った栄養、夜遊び、不規則な生活の他、糖尿病や悪性疾患、エイズなどの合併を疑う。私が繰り出す質問に彼女は「別に」とか「特に」とか答え、時に「そんなことあるわけないでしょ」と怒りを交え、ようやく聞き出した病歴はいずれにも当てはまらなかった。

彼女は証券会社に勤務しており、日常生活もごく普通の若い女性と変わりはなかった。咳や痰などの症状発現から、高熱が出てどうしようもなくなって救急病院にかつぎ込まれるまでの1カ月という時間が、このひどい状態を作り出したのではあるが、なぜなかなか病院に行かなかったのか。若年者で放置していたとはいえ、なぜここまで悪化したのか、この時点ではわからなかった。

若年者の結核はその基礎体力のゆえか、治療開始後しばらく経つと劇的に治癒していくことが多い。現にその頃、私は糖尿病性昏睡と広汎な空洞病変を伴った26歳の男性が劇的に改善していくのを目の当たりにしており、平成の結核なにするものぞという感を抱いていた。

入院時、私はかなりの自信を持って本人と母親に結核という病気と治療の予定、治癒の見込みについて説明したが、彼女たちの表情は変わらず、何か他人事のようで違和感を覚えた。入院当日に結核の話を聞くと、患者も家族も不安に満ちた表情を浮かべることが常であるが、彼女たちは違っており、「あまりのショックに言葉も耳に入らないのだろうか」とその時は思った。

入院当日から強力な抗結核療法を始めたが、開始後2カ月が経過しても彼女のレントゲン写真は改善せず、炎症反応の低下も排菌量の減少も得られなかった。「うまくいっていないこと」を彼女は敏感に感じ、私にも焦りが芽生えてきた。

ある日、様々な疑問が1枚の検査報告書で氷解した。彼女の結核菌は多剤耐性菌で、使用してきたいずれの薬剤にも抵抗性を示していた。知識では知っていたが遭遇するのは初めてだった。わずかに感受性が残っている薬剤に変更したが効果は思わしくなく、治療は彼女の持つ自然治癒力、栄養、休養、気力が中心という一昔前の結核医療に逆戻りした。