ミヤコが住み込みを始めたその年、好高が中国戦線から三年の応召期間満了でN洋装店に復帰した。その好高に同僚のS子が思いを伝えるため、兵営地へ面会に行ったことを聞き、当時としては大胆な行動に驚いたが好高に少し興味が湧いた。

好高には出征経験からくる他の職人には無い落ち着きがあった。仕事に真剣に取り組む鼻筋の通った横顔、そして何よりも職場に高らかに響く笑い声に心がときめいた。好高は実家の金光教会の跡を継ぐため岡山の金光教本部で三年にわたり修行もしたが、義兄弟との跡取りをめぐる確執(好高の母は後妻)や繁盛していたとはいえお供え物やお告げへの謝礼、寄進に頼る生活に性が合わず洋裁業を目指した。

二人が出会った翌一五年には、N家の当主の仲人で結婚式を挙げ独立、一七年には好高の母コウが七五歳で亡くなりはしたものの、太平洋戦争の息苦しさの増す当時の田舎で、希望に燃えた似合いの若夫婦の仲睦まじさは、貧乏ながらも評判だった。ところが順風満帆のミヤコの人生は昭和一八年を境として暗転する。

 昭和一八年二月二五日  夕飯時役場の人が召集令状持参

 同      二七日  私 誕生

 同    三月 三日  好高出征

母は好高の金光教会で鍛えた説得力と意欲的な人柄を頼みとして結婚、長男も授かり将来に胸を膨らませていた矢先に招集され、幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされた。

好高を見送った近所の人が「あんな悲しそうな出征兵士を見たことが無かった」と言い、又別の人は悲壮感溢れる夫と赤子を抱え気丈にふるまいながらも涙にくれる妻との別れの様を見て、「まるで映画を見ているようだった」と言った。

その時の持ち金は僅かに六五円、現在の二一万円ほどに過ぎ無かった。召集令状が届いて以来、不眠不休で幼着を作り続けていた好高は、家を出る間際までミヤコの枕元でミヤコの手をしっかり握り「必ず戻ってくる。戦争は中国で三年も経験している。衛生兵は前線に出ないので安心してくれ。必ず戻ってくるので息子を頼む」とミヤコの目を見つめて必死に繰り返していた言葉を胸に、実家から妹を呼び寄せ小学校に通わせるかたわら、幼子の子守りをさせ、衣類の仕事は何でも引き受けた。

しかしN店での経験も浅く、弟妹の子守りや家事の手伝いで尋常小学校も欠席がちだったミヤコは、漢和辞典首っ引きの悪戦苦闘の毎日だった。そういえばその漢和辞典は、表紙に何枚も何枚も厚紙を重ね中もよれよれだった。

その内男物のスーツも立派に仕立てる事が出来るようになり、県下いや全国でも当時女性で紳士服上下の仕立てを生業としている人は数少なかったであろう。おまけに母は和裁もお手のものだった。