やがて唇が自由になると、彼女が左の耳元で囁いた。……山奥の景色が脳裏に浮かぶ。覚えている、忘れるわけがない。初めて出会った日、その日確かに我らは契りを交わした。こくりと首を縦に振る。

「そうか……」

彼女の唇が耳の外郭を噛み、細い舌が吐息と共に耳の内部を刺激する。快楽に抗うように、彼女の身体をより一層強く抱きしめる。ぴちゃぴちゃと淫猥な水の音と吐息が脳髄を刺激して、どうにかなってしまいそうだ。

「一瞬でも私のことを忘れた罰だよ」

耳元で囁かれる息遣いに、もはや快楽は留めておけない。どうして忘れてしまっていたのだろう。この瞬間をこんなにも望んでいたのに。快楽に支配される。耳を蹂躙される一方で、唇で彼女の鎖骨を吸い上げ、空いた手で彼女の身体のあらゆるところを愛撫する。それでも満たされぬ感情は涙となって零れ落ちた。

「詫びも謝罪もいらぬ。私を留めておきたいと望むのならば、お前さんの心を貰い受けよう。それ以外のものでは取るに足りぬ」

この心はすでに捧げられてある。熱に浮かされたようにコクリと頷く。

「恋などと生温い言葉では済まさせぬぞ。その恐怖も、葛藤も。その恋慕も、渇望も。その孤独も、罪悪も。全部全部私のものだ。……あぁ、そうだ。わたくしを愛してくれても、よいのだぞ」

然り。これが刹那の夢であろうと永遠のまほろばであろうとも、彼女と生きる瞬間には変わりない。そうであるならば、貪欲に、獣のように、愛し合おう。いらぬ。もう何もいらぬ。我ら以外の何もかもが、もはやこの世界には必要がない。

哀しそうに歪んだ彼女の唇を塞ぐ。冷たくも柔らかな手を握る。身体はひとつになりたがり、お互いの境界すらもどかしい。全て全て、愛を交わすための儀式であるかのように厳かに。――せめて、今だけは。再び夢に落ちるまでは、彼女の孤独を埋められるように。あぁ、この夜が常しえに続けばよいのに。

※本記事は、2021年12月刊行の書籍『残滓』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。