そして、つまるところ「国庫巨額の財は、天下芸術の振興を図るべき名目の下に徒らに私の情実を以て浪費せられしか」という大義名分をかざして当事者に有無を言わせず切り捨てる為政者の御都合主義も見逃がすわけにはいかない。(67③)

東京音楽学校の教師への世評がどんなものであったか、学校の実情に疎い世人は新聞記事の語調によって、それが真実と目に写ることも世情の常である。

幸田延の場合、音楽学校の不振の理由は技に於いて量に於いて男性教師以上の女教師の存在であって、この女教師の弄権に伴う弊害が楽界暗流の発祥になっており、その女性が幸田延だとする。(67)

彼女が常に言うところは、学校以外の音楽会に出て演奏することは〈芸人〉のすることであって自身は絶対に出ないし、本人だけならまだしも幸田派一門の教師、同校出身者にまでこれを強制する、その上同校の系統でない音楽家を侮辱する。他の演奏会出演を拒むのは、単に内職である。高貴の方々へのお出入に差し支えるからとの理由だけではないか。こんなことは女の浅知恵以外の何物でもない、と槍玉にあげる。

幸田延は、貞明皇后(一八八四~一九五一)が皇太子妃のころから宮家の音楽教師であり、恒宮、周宮内親王、その他竹田宮家、徳川家、伊達家、住友家などでもピアノを教えていた。

宮家の内親王方はじめ旧家の夫人、令嬢たちが音楽学校の演奏会には繁く来席し、学校の名誉を高からしめたことは、洋楽の普及と無縁なことではなく、幸田延らの功績といえよう。

延は明けて明治四十二年九月学校を辞職するが、その折「音楽学校の廊清、湯原校長の手腕」と見出しをつけて新聞は報じた。(71)