補説 一 父 柴田熊太郎の生家

私は或る日、全く別の動機から小笠郡浜岡町(現御前崎市)で高野長英の伝聞に接した。浜岡の下朝比奈洞の柴田猛甫の家で幕末の頃長英をかくまい長英伝授の丹薬を商なっていたというのである。

柴田猛甫は三浦環の父の名前である。環の父は安政元年四月五日に藤蔵ときくの長男として生まれ二十三歳で家督を相続、この地で造り酒屋として繁盛していた。

明治十四年、三十八歳の折家財を処分して上京し、明治大学の前身、明治法律学校の創設期に伊藤左千夫らとフランスの諸法や国内法等を学んだ進取の気性に富む青年であった。

明治十七年一月に同校を卒業し公証人制度の発足と共に日本最初の公証人となり、昭和元年十二月三十日、七十四歳で死去している。猛甫は当時の日本紳士録にも名の見える高額納税者であり、その墓は相良町の平田寺にある。

環の伝記を追っていた私は、この伝聞に興味を覚え手元の『浜岡町史』を繙くと伝説の章に「養寿丸と高野長英」と題する記述があり、その伝聞の場所は牧之原の茶畑の中新野原の農家が舞台であった。筋立ても面白く史実としての色合もただよっている。

一、二の疑問点は、弘化二年四月の頃として「顔半分が焼けただれ、見るも無惨な容貌である」とあり「二、三日前に江戸を発って長崎に行く途中です」と長英が述べているあたり、史実と矛盾するかとも思われる。

獄舎を逃がれた長英は北に経路をとっており弘化二年には北国の地にかくまわれている。顔面をどこで焼いたかは明らかでないが最後に江戸に戻る直前とされ江戸入りの経路で名古屋滞在の史実は調査も行届いている。

その後の嘉永二年九月から江戸入りまでの数カ月間の空白の中にこの浜岡町の新野原農家や下朝比奈の柴田猛甫の父母らのはからいが存在したならば、長英の伝記の空白に新たな光が注がれることにもなろうか。