夜学時代

翌年4月から、隣の市川市にあった夜間短期大学の英文科に入学した。「学歴何するものぞ」という意地も私にはあったのだが、やはりもう少し上の学歴がほしいというのも本音であったし、英語や外国のことをもっと知りたいという欲求もあった。

働きながらそれらを勉強したい、それには夜間大学しかないだろう、しかも学資が安い所となると短大である。そんな根拠から夜間の短大の英文科に入学することにした。

そのことを両親に伝えたら、入学金だけは出してくれたし、田舎の隣村に嫁いだ姉と義兄が金一封のお祝いをくれた。

ところがまもなく、臨時工として勤めていた工場が破産してしまった。われわれ臨時工員(今でいう「非正規社員」)も労働組合の団結力を弱めないために、当初は団体交渉の一員とされたのだが、2か月もすると交渉の結果「まず臨時工から辞めてほしい」となり、退職金などなく、それまで働いた未払い賃金を精算しただけで退職せざるを得なくなった。

失業保険を受給しながら約6か月「就活」生活に入った。夜勤がなくなったので夜間の短大へ通うには都合よくなったが、昼間行く所がないのは少々辛い気分だった。市立図書館へ行ってさまざまな本を広げてみても、あまり読書に身が入らなかった。
 

 私の青春は嵐吹く闇夜に過ぎない

そこここに陽の目は洩れこぼれたけれど。(河上徹太郎『私の詩と真実』より)※3

ボードレールのこの詩を引用して、河上徹太郎は「これはこの詩人の陰惨な青春を限定したものであるよりは、むしろ青春というもの自体の定義のように聞こえるのである」と言うが、私はこの詩をもじって自分の青春を自嘲気味に、「わが青春は曇り空の日々に過ぎない、嵐も吹かず陽の目も漏れず」と、図書館に持ち込んだノートに落書きしたりした。

もっと波乱万丈とまでは言わなくても、青春のドラマがほしかった。私の青春は当初、鬱屈した失業の日々であったといえる。


※3)河上徹太郎著『私の詩と真実』新潮文庫 1954年

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