「じゃあ行って来るよ」

「行ってらっしゃーい」

京子は何時ものように語尾を伸ばしていった。うまく行った。京子は小さな異変に気付かない。京子のその唄うような声を背に、するりと玄関の扉の陰に身を隠すことができた。それは快感だった。

三日目、いよいよ運命の朝だった。洗面台で過ごす時間がときめきの時間帯となっている。彼は口笛を吹きながら、頬を素手で撫でる。昨日、一昨日と同じように、やはり玄関を出る頃合いが特に微妙な駆け引きを要する時だ。京子が送りに出てきている何十秒かの間を誤魔化し切れればそれで勝ちというものだ。

京子の足音が近付いて来た時、昨日より早めに玄関の明かりのスイッチを切ろうと手を伸ばしかけた。だが、昨日とは京子の足音のスピードが違っていた。玄関に近付くや否や、まだ俊夫の顔も見ないうちに叫んだ。

「あなた、何故髭を剃らないの。髭剃り道具がしまいっぱなしよ。不精髭のまま会社に行くなんてみっともないわよ」

「うむ、いや」

何とか誤魔化そうとする。

「ねえ、ねえ、あなた、昨日から剃ってないんでしょう」

一昨日からだとは口が裂けてもいえない。

「うむ、何、ちょっとした心境の変化なんだ」

心境の変化とはまさに我ながらうまい言い訳だ。

「駄目よ、みっともないわよ」

「もう時間がない。会社に遅れるよ」

そういって俊夫はそそくさと玄関のドアを開けかける。

「待って。駄目よ。会社に少々遅れたっていいわよ。さあもう一度靴を脱いで、上がって」

「いや、これは不精髭じゃあないよ。頬髭を生やすことにしたんだ」

恐れていた通りの反応を京子が示すのを俊夫は慌てて制した。京子が反対すると分かっていたのであえて事前にいわなかっただけだ。彼の返事はあらかじめ準備していた通りのものだ。

「どうして。髭なんて嫌い。不潔で、みっともないわよ」

物事に好き嫌いのはっきりしている京子のその反応もあらかじめ予想していた通りだ。

「議論していては会社に遅れるよ。帰ってからゆっくり話すよ」

押し問答の末、俊夫は否応なしにドアを後ろ手に閉めた。

【前回の記事を読む】「もう駄目だ。こいつを抹殺し、写真機をぶち壊すしかない」