優等生のあなたへ

1973年、奄美の夏物語を思い出してください。

最近は子供も独立し夫婦二人の生活になり、会話のない食事以外は顔を合わせることもありません。あなたは子供や孫への信頼は抜群で、チャランポランな私はあなたの支えでどうにか立場を保っています。でも私は寂しい思いをしているのです。この関係を変えないといけないと思っています。

思い出してください。昔、二人にはこんな物語がありましたよね。恥ずかしいので小説風にまとめました。少しだけ身勝手な私の一人語りに付き合ってください。宜しくお願い致します。

あなたとの出会い

「奄美大島の海と出会わなかったら人生が変わっていただろう」。

私は自信を持って言い切ることが出来る。それを証明するように光る私の左手薬指に嵌る指輪の裏を見ると、”1974.5.26 RtoM“と刻印されている。

1973年、私は初めて鹿児島県の奄美大島を旅した。高校卒業後に就職した大手鉄鋼会社から、兵庫県内の大学で学ぶ機会をもらった。学生生活を楽しんでいたが、微分積分などを使って公式を使わず円の体積を導き出したり、複雑な線形を近似したりすることと実社会の現象がどのように結びつくのかが理解できなかった。

同級生は巧みに実際に起こる現象に学んだことを応用していて、自分の才能のなさを知り段々と学ぶ内容に興味を示せなくなった。与えられる問題には対応できたが、自分で課題を見出すことが出来なかった。勉強で目標を見失い、親しくしていた友人とも共通の話題を見出せなくなった。ストレスから意味もなくテニスサークルの仲間と口論、友人関係にも躓く。心のモヤモヤを解きほぐし柔らかくしなやかにしたいと思った。

そして夏休みに入ると、この思いにところてんのように押し出され船に乗り沖縄を目指す。船に乗ると心が解放され気持ちが柔らかくなった。船には非日常があった。さらに、船室に陣取ったおばさんが

「兄ちゃん、こっちにおいで。これでも食べて」

と声を掛けてくれ黒糖飴をくれた。

これから会話が始まり、おばさんは与論島から子供を訪ねて大阪に行って観光した帰りだと話し、子供と孫の自慢をした。数時間後、船外に出ると室戸岬沖で遠くに灯台が見え、『遠くまで来たな』と思うと大学の出来事は頭から抜けた。

このころから船室は宴会状態に。おばさんを中心に黒糖焼酎で酒盛りが始まり、各々が自分の持っている食べ物を出し、自己紹介と唄(のちにこれは島唄と知る)が始まった。

あたかも親戚が集まって宴会をしている雰囲気。これによってさらに心が癒された。騒がしいが船員さんも見て見ない振りだった。朝方に宴会を抜け出して風呂に入る。湯は海水だったが心地よかった。

ここでさらに幸いがもたらされた。それは東の海から上がる朝日。真っ黒な空が段々と赤く染まる。この光景を見て船旅は正解だったと……。

船は屋久島を過ぎ黒い大きな流れに逆らい、小さな島々を右に見て進む。船室では眠る人、トランプをする人、酒盛りをする人と思い思いに過ごしている。ここでおばさんが

「兄ちゃん、顔が優しくなったね。心配してたけど安心した」

と言ってくれ

「ありがとうございます」

と心の底から屈託なく言えた。

このように36時間の船旅は時間の経過とともに少しずつ心を癒してくれた。

途中、奄美大島の名瀬港で台風に遭遇し、2日間船が停泊。さらに運航の見通しが立たないとのことで予定を変更し下船。私が下船する時にはおばさんはじめ同じ船室にいた人々が親戚のように見送ってくれたのです。