【前回の記事を読む】【小説】最近妻の帰りが遅い…消えた夫婦の写真に疑念は深まる

手帳に刻まれた印

もうこの時間になればユリは勝手にタクシーで帰るだろうと、風呂に入らず眠剤を酒で流し込んで早めに床に就いた。体はどことなくだるいが神経だけは切れんばかりに張っている。眠れないままどれほどの時間が過ぎただろうか、さっきの嫌悪感と邪推を押さえ、やっと眠気がしたとき、マンションの下で車が停まり、ドアの閉まる音が聞こえた。

カーテンの隙間から見下ろすと、街路灯に照らされたユリの影と走り去る車の赤いテールランプが確認できた。その車の陰は明らかにタクシーではない。

重そうな足取りのヒールの音がマンションの外階段に響いている。乏しい豆電球の明りで辛うじて時計の針が読めた。午前二時を回っている。

腹立たしさを感じるが、ユリが帰ってきたことで、もうどこで何をしているのかと気を揉まなくていいという複雑な安堵を覚える。

しばらくしてユリは寝室に入ってきた。そして、冷えた体をそっと布団の中に潜らせた。

肌が触れないよう隙間を保っていても、酒と香水の甘い臭いが漂ってくる。微動ともしない彼女の気配を背中に感じながら、私は狸寝入りのままで眠ろうとするが眠れない。その意識で呼吸までぎこちなくなる。

「遅かったなぁ」

たまりかねて、冷静を装いながら静かに言った。

息を潜めたユリは背を向けたまま、体を(こわ)()らせじっとしている。

「誰かに送ってもらったのか?」

と、私は続けて聞いた。

「誰でもいいでしょ、仕事なの」

ユリは身じろぎもせず、殺していた息を解いて呟くように言った。

興奮を押さえ込みながらの冷静なもの言いが、部屋の中をより張りつめた空気にさせた。

「ほんまに仕事か?」

私は上体を起こして努めて冷静に聞いた。私の動きで捲りあがった布団をユリはひったくって、

「寒いじゃないの!」

と、感情を露わにさせた。かと思うと堰を切ったように私への不満を捲したてた。

「すき好んで働いてなんかいないわよ! 私が働かなかったら生活費はいったいどうするのよ。そのくせアナタは毎日毎日酔っぱらって、渡している食費はお酒を買うためじゃないわよ、大きいことばっかり言ってちっとも稼いでこないくせに! 冗談じゃないわよ!」

「うるさい! 今何時やと思とる!」

私がさらに迫ると、ユリはベッドから弾けるように起きあがり、部屋の隅で身構えた。

「また暴力を振るうの? どうぞやったら! 私もまた警察呼ぶわよ!」

声を震わせて言うと、すぐさま押し入れの毛布を取り出してリビングに飛び出した。

それは一瞬だった。

私は追いかけて問い詰めることもできず、となりの部屋で寝ている輝を意識しながら布団を被って目を閉じたが、神経が張りつめて眠れなかった。

翌朝の六時を待って、私は何事もなかったようにガウンを羽織って寝室を出た。

リビングは薄暗いが部屋は暖かかった。私に気づいたユリは無言でソファーから起きて毛布を抱え、入れ替わるように寝室に消えた。

胸焼けと軽い頭痛を覚えながら部屋の灯をつけて、カーテンを開けると外は薄暗く、雨雲が重く垂れこめ小雨が降っていた。仕掛けていた炊飯器からいい香りがしてきた。

ソファーの傍に、無造作にユリの大きなショルダーバッグが置いてあり、開いた口から携帯が覗いている。

昨夜と同じように私は欲求に負け、携帯を手にとり適当な暗証番号を入れてみたら、ユリが日ごろ使っている番号でヒットした。メールの履歴を見ると頻繁に出てくる名前がある。受信、送信ともに、タケシと書いてあり、まるで恋人同士の文句が綴られている。私はその文字を目にしてもにわかに受け入れられない。しばらく呼吸が止まっていたのか、息を大きく吸い込んだと同時に、手帳のタの印はこれだったのかとピンときた。どこかで覚悟はしていたが、答えがこうして歴然となると逆に腹も立たなかったが、全身の力が抜けた。若いころのような嫉妬心は不思議と湧いてこない。あっ、確か挟んであった名刺! 

私はユリの手帳に挟んであった名刺を思い出した。

浴室の扉を閉める音にシャワーの音が続いた。

慌てて私は携帯をバッグに戻し、ユリがシャワーを浴びていることを確認して寝室に入った。手帳はまだ鏡台の上にあった。開いて名刺を確認すると、田中武 「株式会社バグハウス」、代表取締役社長とある。一瞬、私はユリを詰問したい衝動に駆られたが、穴の開いた風船のようにすぐにその気は萎んだ。結果が容易に想像できたからだ。

住所は東京都品川区大井―、浅井の事務所の大森とは京浜東北線の駅ひとつの距離だ。

私は急いでリビングに戻り、名刺の住所と名前をメモに書きとった。

ゴトン、背中の物音にビクッとした。輝が起きて来る。私はすぐさま名刺を寝室の手帳に戻してきた。

憤怒することも諦観することもない、まして絶叫し罵るようなパワーも湧いてこなかった。私はいつものように朝食と弁当の用意に取りかかった。

その後、私が何も言わないのをいいことに、ユリの帰宅は連日午前さんになり、土日も何かと理由をつけては何をはばかることなく外出するようになっていった。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『わくらば』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。