私とギ・リ・シ・ア

ヒポクラテスの誓い

誓いは、このような書き出しで始まります。「私は、Apollon・Asclepios・Hygie・Panaceeそしてすべての神と女神たちの前に誓います。私は、この誓いをもって力の限り実行します。……」

旅の始まり

1969年、文学部フランス文学科を卒業した私はエステティックの学校に入るため一人旅立ちました。ちょうど世の中は戦後レジームの脱却期でありました。日本では対安保反対運動が激しさを増し、パリでも学生街カルチエ・ラタンにあふれるほどの大規模な学生デモがくりひろげられるなど社会は混乱の中にありました。私の隣に座る外国人男性が美しい日本語で話しかけてきます。

「フランスにいらっしゃるのですか?」

緊張する私は、「えぇ……」とだけのそっけない返事しかしませんでした。

「私は、作家です。パリで開催される国際ペンクラブの会に出席のためフランスに行きます。」

すっかり固まってしまっている私に、スラスラッと書いて渡された言葉は、

ふらんすへ行きたしと思へども

ふらんすはあまりに遠し

せめては新しき背廣を着て

きままなる旅にいでてみん。

……………

荻原朔太郎

朔太郎の詩でした。コチコチになっている私には作家センセイの心情は届きません。半世紀経った今になってこんな素敵なメッセージを贈ってくださった作家センセイとの出会いを折に触れ思い出します。

飛行機は、羽田からアンカレッジ経由でオランダのスキポールへと向かいました。当時のアンカレッジの空港ビルはとても小さく、ホールにはベトナム戦線に赴くアメリカの若者であふれていました。向かう先は東西正反対と異なるものの同年代の青年たちです。

緊張の中、たくさんのカメラレンズに気付いたとき、不思議な違和感を覚えました。ツーショットの撮影も次から次に頼まれました。後にも先にも人生一度だけの経験です。あの青年たちのその後をふっと思い浮かべることがあります。「一期一会」という言葉をかみしめながら。アムステルダムのスキポールから三角窓が特徴のカラベルに乗り換えてパリ、ル・ブルジェ空港に降り立ちました。学校に入るためにパリの地を踏んだのです。日銀の外貨許可を受けフランス政府の留学生滞在許可も得ての正式な留学生活の始まりです。

Esthétique(エステティック)の学校

マダムASABUKIが二重丸を付けたエコールは、イメージしていた学校とは程遠い私塾のようなものでした。「あなたの学校はリストに見当たらない」との日銀の担当者の冷たい渋った眼鏡の奥の視線が思い出されました。そのフランスにも変革期の波が押し寄せていました。まだ少し旧き良き時代の面影を引きずる一方で、新しい草が芽を吹き出しはじめる、まさに草創期でありました。

エステティックの学校もこの1~2年の間に1校から2校、そして3校と、5本の指に入るくらいの数しかまだ存在していませんでした。Esthétique、Esthétique Salonという言葉そのものもまだたいへん目新しいものでした。世界中のセレブたちはいち早く“Elegance”の都パリに足を運んできていました。

サロンの前の細い通りにはご立派な制服制帽の運転手を待たせるお車が列をなす、そのサロンがはじめたエコールに通うことになりました。一応、生徒はBaccalaureat(バカロレア)・大学入学資格試験を通った人が対象でした。人数は30人弱でしたが、生徒は実に多彩。

フランス国内ばかりでなく近隣諸国から、フランスの海外県から。さらに驚いたことは、通常付けられる名前の前の敬称がPrincesseや貴族の称号で今もって普通に呼ばれている人がいたり、誰もがその名を知る名家のご令嬢など良家の子女と思しき女の子ばかりでした。極東の端っこの、しかも敗戦国からの身にはこれだけでも大変なカルチャーショックでした。

※本記事は、2020年2月刊行の書籍『ドレナージュ大全』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。