【前回の記事を読む】天職を辞めてまで地元に帰ってきたのに…他人任せな弟に激怒

庇を貸して母屋を取られる《三十三歳〜三十四歳》

相手に決定権がある案件を、手前勝手に思案しても埒が明かない。思い立ったが吉日と、恭平は万鶴の大泉社長に電話で面会を求め、快諾を得た。高校時代から顔を合わせていながら、殆ど話したことも無かった大泉社長だが、面談は思いがけず弾んだ。しかし、弾み過ぎたのが仇になったのか、肝心の工場賃貸の件は「NO!」だった。

「お前に工場を貸したら、庇を貸して母屋を取られる」

何故、「NO!」なのかを訊ねた恭平は、大泉社長の答えに思わず笑ってしまった。

「それって、買い被りも好いとこですよ。私は、知識も経験も全く無いんですから」

釈明する恭平に、大泉社長は真顔で説いた。

「弁当屋に、知識も経験も要らん。必要なのは、傑出したサービス精神と行動力だ。唐突に儂に会いに来て、いきなり工場を貸せと言うお前には、その両方がある。だから、お前には工場を貸さん」

「どんなにサービス精神と行動力があっても、金が無ければどうにもなりませんよ」

「その通りだ。商売人にとって金は、命だ。そして、今のお前には金が無い。金が無いから、工場が無い。つまり、お前に工場を貸すのは、金を貸すのと同じことだ」

「じゃあ、お金なら貸して貰えますか?」

「金を借りるには、担保が要る。担保代わりに、お前がウチに来い。ウチに来て、専務をやれ。そうしたら、工場を貸してやる」

「えっ、私が万鶴に行ったら、工場を借りる意味が無いじゃないですか。親父の会社はどうするんですか?」

「弟がいるじゃないか。お前が両方の専務をしながら、親父の会社は弟に任せれば好い」

「だったら、弟を万鶴の専務か常務にしてください。あいつにも他人のメシを喰わせた方が良いから」

「駄目だ。弟なら、要らん。お前の弟には、サービス精神も行動力も感じられん」

「そうですか。それじゃあ、私が万鶴の専務になれば、工場は貸してもらえるんですね」

「あぁ、貸してやる。破格の家賃で貸してやる」

恭平が人身御供となり、敷金などは一切免除された前代未聞の工場賃貸交渉が成立。

二社の専務を兼務するという不可解なポジションに立った恭平の給与は、万鶴から全額支給され月額十万円アップした。

万鶴の事業内容は、約四千食の給食弁当、折詰弁当の仕出し部門に加え、官公庁や放送局など十カ所以上の社員食堂を委託されていた。恭平が中心となっての積極的な営業活動が功を奏し、一年後には万鶴とひろしま食品の給食弁当の食数は各々五百食ずつ増え、九億円だった万鶴の売上は十億円を超えた。

そして、ひろしま食品は店舗経営からの撤退を実現し、資金繰りは安定し始めた。

万鶴に入社してから直ぐ、恭平は製造と営業と労務管理、つまり経理以外の全てを任されるようになり、大泉社長が恭平を招聘した本当の理由を知った。万鶴には、労働組合が存在した。

世間一般の労働組合なら問題無いのだが、万鶴の組合は詐欺罪などの前科を持つと噂される安藤委員長に牛耳られていた。言葉巧みに組合員を扇動する安藤委員長と取り巻きの数名に、大泉社長はホトホト手を焼いていたのだった。