2 若草伽藍の発掘調査

古くから法隆寺西院伽藍の南東二百メートルほどの平地に、大きな塔礎石が置かれていました。見た目には何の変哲もない、ただの大きな石で、一時は繁茂する草の中に埋もれていたといわれています。

ところが、明治時代になってこの塔礎石は買い取られ、法隆寺から外へ運び出されるという事態になりました。その後、紆余曲折を経て昭和の初期に再び塔礎石が法隆寺に戻されることになったのです。

塔礎石が戻されるとき、法隆寺側は塔礎石を元の位置に戻して欲しいと要望しました。しかし、運び出されてから相当の歳月が経過しており、地表からでは元の位置が分かりません。元の位置を知るには、地面を掘って確かめる必要がありました。

そこで、昭和十四年(一九三九)十二月、塔礎石の本来の位置を確認するため、発掘調査が行われることになりました。発掘調査はトレンチと呼ばれる細い溝を東西と南北に掘り、表土の下に隠れた古い地盤面を慎重に確認していくという方法で行われました。そして、この発掘調査の過程で地中から現在の法隆寺とは異なる、別の寺の跡らしきものが出現したのです。

詳しく調べたところ、現在の法隆寺に匹敵する規模の寺(後に「若草伽藍」と命名される)の金堂と塔の跡と判明しました。

現在の法隆寺の金堂と塔は東西に並んでいますが、発見された金堂と塔は南北直線状に連なる四天王寺式であるという特徴も分かりました。また、伽藍の南北の中心軸は現在の法隆寺が磁北に対して四度弱ほど西に振れているのに対し、発見された伽藍の中心軸は磁北に対して大きく二十度も西に振れているという事実も判明しました。

さらに、発掘調査で得られた瓦の破片などを調べたところ、火災の痕跡が認められ、このとき発見された伽藍こそ推古朝に創建され、その後火災に遭って焼失した斑鳩寺いかるがのてらであり、現在の法隆寺西院の前身であると結論されたのです(『法隆寺若草伽藍址の発掘に就て』石田茂作著)。そして、このとき発見された伽藍は、その場所にちなんで若草伽藍と命名されることになったのです。

結局、この若草伽藍が発見されたことで、長く続いた法隆寺の再建・非再建の大論争は、再建論側の勝利ということで決着したのです。若草伽藍の出現は法隆寺研究にとって大きな発見でしたが、非再建論者にとってはきわめて不利な結果となりました。

※本記事は、2021年11月刊行の書籍『法隆寺は燃えているか 日本書紀の完全犯罪』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。