講演は八月二十五日。時間は九十分。カルチャーセンター側からの注文は一つだけ。講師から一方的に話すだけではなく、「受講者参加型」の要素を織り交ぜてほしいというものだった。

深夜、宅送りのハイヤーで、留守番をしてくれている遥のことを思った。そこに和枝の顔も並んだ。

「俺の会社と藤沢の家とK大病院の三つの場所は、地図上では一辺が四〇~五〇キロの大きな三角形をつくっている。うちら家族はそんな距離を強い力で結んでいるのだ」

そう思いついてほんわかした気分になったり、相変わらず呑気な奴だなと呆れたりしているうちに家にたどり着く。午前一時を回っていた。玄関を開けると、トイレ、浴室、二階のウオークインクローゼットまで、家中の明かりという明かりが残らず点いていた。

遥は「暑い、暑い」と言いながら眠りも浅い。やっぱり心細かったのだ。汗にぬれた後ろ頭を拭いてあげて、アイス枕を差し入れた。

和枝、初めての退院。朝から頭痛がすると言い、病院を出るときから助手席のシートを倒して寝ていたが、家の近所のスーパー前で信号待ちになった時、すっと目を覚ました。おもむろに窓を開けて、自転車のかごに買い物袋を入れている人や、エスカレーターで店内に入っていく人の流れを眺めている。

やがて青信号で廉が車を出すと、和枝は窓を閉め、声もなくひとしきり泣いた。

※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。