【前回の記事を読む】たとえいじめられても…汲み取り屋が毎日ニコニコ働く理由

赤線通いの皆勤賞!

藤倉産業の始まりは、戦後まだ西方市が市政を発足する前の西方町だった頃まで遡る。それは七十三年前のことである。

紘一の父である佐藤末吉が、滋賀県から東京に出てきて何も仕事がないなかで、紘一をはじめ家族四人を養うために考え、悩みぬいて始めた仕事だった。

当時の東京の屎尿は、貨物輸送などにより農家へ肥料の原料として運ばれたほか、一部は下水道へ投入され、一九五〇年からは、東京湾への海洋投棄が再開された。

これらの処理と合わせて、GHQ(連合軍総司令部)の指導によって政府の資源調査会では「屎尿汲取りの機械化と屎尿資源の科学的衛生処理、屎尿と下水道との合同処理」を検討研究していた。

そこで汲み取りの機械化収集と、屎尿の科学的処理法としては、嫌気性消化法が最善であるとの報告が国にされた。

その結果、各地で屎尿は、ひしゃくによる汲み取りから、次第に機械化収集に切り替わっていった。東京都では一九五七年に、屎尿機械化収集計画が開始され、一九六〇年に完了した。

末吉は、木製の肥桶を荷車に積んで農家以外の商店街や、勤め人の家、アパートなどを回った。ひしゃくでトイレの屎尿を肥桶に汲み取って、その手数料を貰った。そして、肥桶を荷車に乗せて農家に運んだ。

農家には、当時必ず肥溜めというものがあった。末吉は荷車から肥桶を二つずつ天秤棒で担いで、肥溜めまで運んでその中へ投入した。

肥溜めとは、屎尿を貯蔵し、下しも肥ごという堆肥(畑の肥料)にするための穴、または大きめの壺のことだ。今では化学肥料が主流となっていて、下肥を使わなくなったので、肥溜めはなくなってしまった。しかし昔はよく用いられ日本の伝統的な農業設備としては、なくてはならない物の一つであった。

屎尿は、そのままでは肥料にはならない。肥料にするには、糞尿を肥溜めに溜めて嫌気性菌などの働きにより、寄生虫などを死滅させるために一~三年ほどしっかり発酵させ、使用の際には水で薄めるのが基本である。

発酵をさせずに糞尿を撒いても作物の根が腐り肥料としての役割は果たさないため、発酵させ貯蔵するために、当時の農業にとって肥溜めは必要不可欠だった。