これが本隊で大将は範頼。兵力八千、姿を消していた義経軍は別働隊として千余りが搦め手として伊賀から宇治に向かっているという。義経と景時義経の別働隊は全て騎兵で構成した。宇治までは間道であり杣道である。木津川の断崖に沿う道は、川に転落するより山側の岩で怪我をする方を選ぶというほど厳しく、人馬ともに傷だらけで通過した。

休むことなく進む義経に、頼朝から付けられた軍監梶原景時は、

「そのように急がれると危険であるし、人馬とも疲れ果て宇治に入ってもすぐには動けません」

と何度も諌めたが義経は無視した。

軍監とは後の軍目付で、参謀兼監視役である。梶原景時は坂東平氏の流れで、頼朝旗揚げの時は平家側の鎮圧軍にあって、石橋山の合戦で敗れた頼朝を追った時、木の洞に隠れる主従を故意に見逃して恩を売った。

その後頼朝陣営に鞍替えしてからは、その時の功を声高に吹聴して御家人間では嫌われ者だった。頼朝はそれでも受けた恩に報いてか重用していた。

「軍監とな。そのような者はいらぬ」

と義経は拒絶しようとしたが、

「範頼様には侍所別当の和田義盛殿が付いておられます。逆らわずに軍の倣いとしてお認めなされ」

と弁慶に諭されしぶしぶ承知した経緯がある。

「景時の言を兄上の言葉として指示に従う、などわしはせぬぞ。竜韜(『六韜』の第三巻)に『軍中の事は君命を聞かず、皆将より出ず』とあったではないか、戦場では時に応じてその場の将が判断して実行する。そうであったな弁慶」

「左様でございます。殿はこの別働隊の指揮官、ご自分の考えをお通しなさるが良かろうと思います」

「ん。そうする」

「それに、『気、青雲をしのぎ、疾きこと馳騖ちぶするが若く、兵、刃をまじえずして敵降服す』であったな」

「いかにも。左様で」

宇治川の急流を臨むところに出た。対岸には白旗が靡いている。

「あれは。誰か」

「常陸志田の住人志田三郎義広殿でございます」

「叔父上ではないか」

志田義広は義朝の弟であり、頼朝の旗揚げ時参軍しようとしたが、行家同様家臣扱いを受けたため頼朝を離れ義仲の陣営に入った。頼朝が行家・義広討伐軍を送ったことで敵となっていたのだ。義経が流れの底を探らせている間に、二騎が川に乗り入れ先陣を争った。

佐々木高綱と景時の子景季である。共に出陣に当たって頼朝から馬を与えられていた。続いて義経は弓の援護の下で渡河を命じ、志田陣を蹴散らした。全軍の渡河を確認した義経は、これを四隊に分け都に攻め入った。

第一隊は小野・七条方面、第二隊は小畑・深草方面、第三隊は伏見・法性寺方面へ、そして自ら指揮する第四隊は小幡・醍醐方面へ。少ない兵数を分けることに反対が多かったが、義経は「我に従え」と先頭で飛び出した。大将が出た以上従わざるを得ない。