【前回の記事を読む】突然寺を飛び出し…援軍の将に名乗り出たのは義経の兄「義円」

義仲と行家

行家の逆心に消沈していた義仲は開き直り、寿永二年十一月十九日行動を起こした。

手元に残った直属の木曽軍は負け戦が続いたとはいえ度重なる実戦で鍛えられた強兵である。たちまち御所に火をかけ守兵を追い払った。

義仲は、法皇を五条東洞院にあった摂政藤原基通の屋敷に移し、仮御所と定めた。そして東の頼朝、西の平家という脅威も忘れ、宮廷の人事にまで踏み込み、院の側近、反義仲の公卿を駆逐して自分の好きな公家たちを配置した。

行方が分からなかった義経は交通の要衝伊勢にいた。頼朝の『京に接近しすぎないこと、先走りはせず鎌倉の指示通りに動くこと』という厳命を守っていたのだ。

義経にとっては初陣と言ってよいのだが、逸る心を抑え頼朝の指示に従い毎日都の情報を送っていた。頼朝は義仲が都に戻り勢いを取り戻したことで、義経には、『大軍を送る、そこで待て』と指示し、義仲討伐軍を送る手筈を整えた。

その大将として義朝の六男で遠江の養父藤原範季の下から駆けつけていた範頼を指名した。

やがて、義仲が法住寺御所を襲い法皇を監禁したという暴挙を知った。義仲は法皇に強要して従四位下の官位を得て源氏で最高位となったことから、いよいよ傍若無人の行動は歯止めがきかなくなり、公家の館に押し入りその娘を側室にすると言って体を弄ぶという事にまで及んだ。

そんな中行家が播磨で大敗したという知らせが届いた。

義仲は嗤ったが、行家としては頼朝を意識した予定の行動であった。つまり、討ち取られるのは必定の義仲とは一線を画していることを宣言したかったのだ。ただ、頼朝に嫌われていることに変わりはないので、河内源氏の石川氏の元に逃げ込んだ。そして、形ばかり義仲への反旗を翻した。

頼朝に逆らってまで庇った行家の裏切りに激しく腹を立てた義仲は、これを討つために右腕の樋口次郎兼光を大将として旗下の主力を派遣してしまった。主力を出してしまった義仲は、頼朝に対抗するために本来の敵である平家と同盟しようとさえした。

完全に義仲を見捨てた法皇は、鎌倉軍が到着するまでの時間稼ぎとして義仲に征夷大将軍を与えた。更に追い打ちをかけるように『旭将軍と申せばよい』と持ち上げた。

有頂天で館に帰った義仲に注進が入った。

『尾張・美濃で屯集していた鎌倉軍が近江に向かって動き始めた』。